作品投稿


今月の秀作と選評



 (2007年5月)

星野 清(新アララギ編集委員)


秀作



新 緑

病める児と生きゆく友の日日を綴るブログが我を励ます
片麻痺の我が運転を見つめいる筋痛症に苦しむ友は


評)
両首、懸命に生きる作者の姿が見える。1首目、現況を知らずとも、苦難の中に生きている作者を感じ取れよう。2首目、原作の3句「じっと見る」を書き換えた。



斎藤 茂

子供らの遊びて走る声聞けば元気が出ると媼は言へり
ヘルペスの痛さにひと夜眠り得ず開けたる窓に残る月見ぬ


評)
1首目、力まずに捉えて媼の人柄も窺える、そこが手柄だ。2首目、上の句により特色が出た。結句、原作の「見ゆ」では「見える」の意になってしまう。



大橋 悦子

病室の窓辺に花見せんとして寿司折りひとつ父に持ちゆく
病む父の窓辺に見ゆる桜の木梢は青き空に伸びゆく


評)
1首目、父と二人で「寿司折りひとつ」ならば、「ささやか」は言わずもがな。2首目、原作の初句「見舞いたる」も言わずもがな。例えばこうすると、下の句がより映える。



イルカ

友の撮りし一輪の白きカタクリの輝きを見ぬネットの中に



評)
内容も現代的で、友の写真を印象的に捉え得た。原作の4句に手を加えた。



若 葉

往年のスターを気取り我が妻と腕組みて巡るローマの街を


評)
あまりにも有名な「ローマの休日」をなぞって、高揚した気分を伝えている。「て」の位置を変えて整理した。



英 山

「帰るよ」と翁は席を空けくれぬ混みはじめたる大衆酒場に



評)
席を譲ってくれた翁の行為に作歌動機があったようだが、それが遂に出てこなかった。この3句のように言えばそれも出よう。


佳作



けいこ

保育所に向かふ朝々をさなごと声を揃へて歌うたひゆく
アトピーにむづかるをさな夜ごとに起きでてママよババよとすがる
馴染みなき都会の総合病院に五時間待ちて五分の受診



評)
1首目、過去の結句を現在にした。それぞれ内容は、やや一般的と言えよう。



大橋 悦子

誰が生けてくれしか父の病室に黄の水仙の花のまばゆし
臥す父の手にクレヨンの生き生きと桜の枝を写しゆきたり


評)
それぞれある水準に達している。



英 山

大方が梅割たのむこの店にOLまでもが連れだち並ぶ
創業は明治十年といふ四代目注文にこたふる声歯切れよし



評)
大衆酒場の寸景は捉え得た。2首目、3句の「の」を省き、歌も少し歯切れよくした。



イルカ

一斉に隙なく草の萌えいでぬたんぽぽの黄を包み込みつつ
学生の頃にさらいし六段の調べの流る恩師の庭に


評)
一応は言い得ている。2首目、原作の「調べ流るる」では歌が宙ぶらりんなので、いったん終止させた。



吉岡 健児

「この漫画が欲しい」と告げるをさなごにためらひつつも千円を出す
名作のならぶ書棚の片隅に売れ残りたる歌集見つけぬ


評)
作者と幼な児との間柄がいまひとつ見えないところが弱かった。両首、一応は言い得ている。



若 葉

肌の色語る言葉は違えども願いは同じかトレビの泉へ
教会の壁に残れるダヴィンチの『最後の晩餐』ただ立ち尽くす



評)
それぞれ、やや不消化でもったいない。2首目、「ただ立ち尽くす」だけではもの足りない。



斎藤 茂

ひとり居のわれを気遣ひ訪ね来ぬ娘(こ)は食材の袋を提げて



評)
一応は言い得ているが、今ではありふれている内容である。



新 緑

リハビリに歩く速さは年々に衰えるともめげずに歩く



評)
言いたいことは、このようなことなのだろう。原作とは違いすぎるので、ここに置いた。


寸言


選歌後記

◎「歌いたいものは何なのか」を徹底して吟味すること
今まで直接手を加えることをあまりしてこなかったので、ここに最終稿を取り上げながら添削してみた。あくまでも一つの提案として検討してほしいと思うのだが、原作との相違については注意深く比べて読んでもらいたい。質問などあればお答えする。
歌は、ある一瞬を切り取り表現することを目指したい。「どうして、そうして、こうなった」などのようなお話ではない。如何にして余計なことを削って、核となるものに集中した表現にしていくか。これは初心の方々のためのことではなく、私どもが常にそうしようとして努力していることであることと承知してほしい。

十夜間さんへ。何かありそうで魅力を感じながら次を待っていたが、結局は振り出しに戻った感じの最終稿となり残念だった。後で、掲示板に場所を変えて書いておくつもりなので見てほしい。

             星野 清(新アララギ編集委員)


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