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今月の秀作と選評



 (2007年11月) < *印 新仮名遣い>

星野 清(新アララギ編集委員)


秀作



ひ で

至仏山の草の剥がれし道下りまた返り見ぬ我が踏み跡を
唐松は絶えることなく葉を落とす黄金の色に我を包みて
やがて冬心おきなく眠れよと静かに雪よ尾瀬に降り積め


評)
初句字余りでも「の」を補った。
2首目、強い執着のある唐松とのこと、結句に少し手を入れたがこれでいかがか。
3首目、作者の思い入れを受け止めることができる。この一連には共感を覚えた。



小林 久美子


過疎進み檀家も減りぬと声落とす老いたる僧の姿忘れ得ず
この寺に今日の記帳は四名のみ褪せたる冊子に吾も名を書く
夏の夜を泊まりに来よと坊守は寺の外まで見送り呉れぬ


評)
1首目、3句にたどりついた努力を買おう。下の句、少し手を入れた。
以下、それぞれ捉え得たものがある。「坊守」の語が利いている。



むぎぶどう *


出発を楽しみに待つ子の文字が修学旅行のしおりにあふる
子の班の立てた予定は分刻みマクドナルドを出る時刻すら
夕暮れの舗道あかるしかたわらにセイタカアワダチソウ咲きいでて


評)
1首目、さまざまな試みがあったが、こんなところでまあ落ち着いた。
2首目、当初から完成の域、「マクドナルド」が効果を上げている。如何にも少年期の姿が見て取れる。
最後、ある雰囲気を湛えている。評者はこの草を忌む一人だが、それは別の話。



斎藤 茂

熊笹の群がり茂る川の辺に彼岸花咲くひと処あり
徒競走の白組優太は声かくるわれに手を振りビリ走りゆく


評)
地味だが味わいがある。
2首目、子供の屈託のなさがうまく捉えられている。



栄 藤

身の内の灰汁のすべてが出たやうな散歩のあとの汗を拭へり
看護師に齢を聞かれて八十と答へつつわが歳におどろく


評)
1首目の散歩の後のさわやかさ、2首目はその驚きに共感できる。若さある歌の詠めることを称えたい。



英 山

稜線の砂礫に這へるミネヤナギ吹き上ぐる風に絮(わた)を飛ばせり
汗落つるままにやうやく出でし尾根吹きくる風に山百合香る


評)
その情景が見えるようだ。2首目、4句は理屈っぽく言わずに、この位軽く行きたい。



けいこ

動き止まぬをさなの遊び相手われ馬になつたり汽車になつたり
亡き母と夫に守られうかうかと子育てせしを今に思ふも


評)
その様を、軽く楽しく捉え得た。
2首目、上の句の自覚があるのだから「悔いて」はなくても思いは伝わる。「守られうかうかと」が眼目。



吉岡 健児

閉山に廃校となりしわが母校の窓辺に薄まぶしく揺るる
万年筆のインクの匂ひ嗅ぎながら無事に過ぎたる一日を綴る


評)
原作の結句では薄に集中し過ぎるので、別案を提示した。
2首目、少しおとなしいが、昨今の暮らしの中の万年筆とインクの価値を認めよう。



坂本 ひすい *

様々な思いはあれど今はもう去り行く人を敢えて留めず
海鳥は風にあらがい飛んでゆく白き翼に夕日をあびて


評)
ある感情を、落ち着いて捉えているところがよい。
2首目、上の句にうまく照応する下の句となった。



新 緑

階段の段差の高く麻痺の足脅えながらにそろそろ下りる


評)
作者の状況が思われて、読者と共に見守りたい思いだ。


佳作



栄 藤


驚きて出てくる蛙がかはゆくて石蕗に今日も散水をせり
癒やさるるとも思はねど亡き犬に似るぬひぐるみ店に探せり


評)
それぞれの視点に作者らしさがある。



小林 久美子

寂れたる寺庭一面を覆ひ尽くす苔の緑に手を触れてみぬ
朝あさを歩む街路樹の下に立ち今年初めての蝉を聞きたり


評)
1首目、上の句は今ひとつイメージしにくい。結句を省き、寺庭の苔を主体に歌えたならば格が上がろう。
2首目も、「歩む…下に立ち」などが改善できれば、もっとよくなる。



英 山


崖(きりぎし)を下れば狭き河床の朽ちたる木々に群るる楢茸
人行かぬ谷に果てむとする木あり千本市女笠(せんぼんいちめがさ)に覆ひつくされて


評)
両首、ていねいに捉えようとしているところがよい。



斎藤 茂


空青く走りたくなり走りゆく吐く息軽くリズム整ふ
茄子胡瓜枝豆並ぶ無人の店お金を入れる竹筒を置く


評)
作者の気持に共感できる。2首目、竹筒に視点を置いてまとめてみた。よく歌えているが、類歌が如何にも多い。



新 緑 *


「患いを楽しむようね」と友の言うキーボードを打つわが傍らに
踊り場の上の階段に手摺なく窓枠掴んで我は上りぬ


評)
作者の状況を知る者にはおよそ想像ができるが、やや分かりにくい。2首目、「段差」は「階段」ではなかったか。下の句には心持ちが表れている。



ひで


国立公園尾瀬を祝へる幟立つに草なき至仏の道を思へり



評)
今までのいきさつを見ると、こんな歌を詠みたかったのではないか。尾瀬なのだから、至仏だけで山の名と受け止められよう。



けいこ


むづかつて笑ひ転げるをさなごは疲れし吾の蘇生魔術師



評)
結句はやや不熟だが、気持ちはよく分かる。「転げて」を書き換えた。



むぎぶどう *


机には小さな東京タワーあり子の思い出の色に光りて



評)
ある感じはありながら、一首だけでみるとやや分かりにくいところが惜しい。



坂本 ひすい *


ひそやかな心の襞を映すごと浜に寄せ来る秋のさざ波
すれ違う気持ちの中に過ぎる日々二人の未来見い出せぬまま
暮れなずむ岬に立てば潮騒は調べとなりて胸にしみ来る


評)
それぞれにある感じはあるが、気分先行か。1首目の上の句、3首目の下の句など、もう少し実に即して歌いたい。



仲 山 *


由緒ありそうな金字の掛け物はてんしょとわかるがとても読めない



評)
原作とは大分違えてここに書いたが、繰り返しこだわっていた漢詩のことは、こんなことだったのではなかっただろうか。


寸言


選歌後記

◎ものによって語らせよう…写生、写実、実に即するということ

例を、小林さんの今回の歌から取る。
最終稿に、「寂れたる寺庭一面を覆ひ尽くす苔の緑に手を触れてみぬ」があった。
この初句「寂れたる」は作者の感じたことであるが、なぜ作者は寂れたと感じたのか。読者にはそう言われても分からない。その点では、それまでの改稿の中の「山峡の」の方が実に即してものを言っていたわけだ。
また「寺庭一面を」と言われても、その寺庭のイメージを読者は思い描くことはできない。広さは?日当たりは?樹木は? …手がかりは何もない。
結句からは、作者がそうしたかった何かがあったことがわかるが、「私はどうしました」と言われても、読者は「ああそうでしたか」と言うにとどまる。歌としては次元が低いと言わざるを得ない。
一首の中に提示された「もの」によって、読者は情景を思い描き、作者がどう感じたであろうかを感じとれるようにする。それが、実に即してものを言うということだ。如何にして必要なものを切り取って提示できるかである。そこでは、作者が饒舌になる必要は全くない。
それぞれご自分の今までの歌を冷静に眺めて、こんな見方で考えてみることをお奨めしたい。

無愛想なコメントに、よく食らいついて最終稿を提出された方々と、この間支えてくれた八木さんに感謝したい。またの機会に…。


           星野 清(新アララギ編集委員)


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