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今月の秀作と選評



 (2009年7月) < *印 新仮名遣い>

雁部 貞夫(新アララギ編集委員・選者)


秀作



佐藤 和佳子

地下鉄の長いホームを渡りきる歩く力の蘇りしか


評)
地下鉄のホームは実に長い。特に東京などでは複雑に交叉している駅が多く、下手をすると1kmくらい歩かされたりする。そのホームを渡り切り、歩く力の蘇ったという喜びの歌。結びは「・・・しか」よりも「・・たり」と言った方がベター。他の作も端的でよい。



松 本


われの名を呼び捨てにしてくれし人母を最後にことごとく逝く


評)
自分の名を呼び捨てにしてくれた人が、母をさいごに皆いなくなったと、人生の寂しさ表現して共感をさそう。深田久弥が急逝した折に親友であった柴生田稔先生が全く同趣の挽歌を作っている。



太 田


人文字の新聞広告に九条守るわれも一人と名前捜しぬ



評)
かっては私の属していた組合(都立高校教祖)でも年一度浄財をつのって、新聞に意見広告を出したものである。この作によって、今でもそうした試みが行われているのを知り、うれしく思った。作者がその運動を担う何千分の一、何万分の一の力を果たしていると自分に引きつた点がよい。



市 村


春の山に嵐の吹きて樟がゆれ樫がゆれ帽子も飛びぬ



評)
春の嵐によつて「樟」や「樫」がゆれ、さいごに「帽子」が飛んだと活き活きとたたみ込んだのが印象的。他の作もカンどころを押さえた達者な詠みぶりだ。



まりも


たいせつに冬を囲ひし小海老草花の重みに茎を撓らす



評)
大事に育てた「小海老草」(実体を知らぬがこれでよい)が眼前に花の重さで茎をしならせていると、しっとりと表現している。他の歌よりもこの作に最もひかれる。



新 緑


庭の松に積もるる雪を楽しめり麻痺病むわれは温き部屋より



評)
この歌には内容がある。但し「積もるる」という語法はない。 「積もりし」とし、また「楽しみぬ」と整える必要はある。 しかし、何と言っても歌は内容が良いのが良い。その意味で いつも新緑さんの歌は光る。



佳作



勝村 幸生


近親者のみにて葬儀行ひし梅原龍三郎を我は尊ぶ


評)
映画「おくりびと」が話題となり、それに関わる歌も多く目にするが、この作は「近親者のみ」の葬儀を行った梅原画伯を尊ぶという所に作者の死生観が打ち出されている。



けいこ


幾枚もマスクを買ひて荷に詰めぬ電車の中もマスクはずさず


評)
インフルエンザ流行の現在だから共感を呼ぶ作。数年すれば、この作だけではよく判らない歌になってしまうが、それでも良いのである。



金子 武次郎


機首転じ迫るグラマン飛行士のゴーグル光るを吾は見にけり


評)
戦中派の作。低空飛行して機銃掃射したグラマン機のことを詠んだ作は結構多い。この歌はよくまとまっていて、よい。



吉井 秀雄

メーデーを不参加と決めて十幾年かの日は「格差」の言葉聞こえず


評)
メーデー祭のはなやかなりし頃を回想した作。そこに現在の労働運動の停滞ぶりの落差があり、却って考えさせられる。



紅葉

準決勝決勝戦は日取りだけ書き込まれてある子のカレンダー


評)
甲子園大会の予選(他の競技かもしれ知れない)であろうか。準決勝、決勝の日取りだけ記入されている子のカレンダーというところがよい。他のもまとまりがありなかなか達者な詠みぶりである。


寸言


選歌後記

総じて言えることは、共通して、最後のひとねばりが足りない、ということである。特に字余りが多いのは「歌」を成立させている大きな要素である「調べ」を著しく損ねて、歌の印象を薄めてしまっている。多くの場合、もう一工夫すれば定型に収まる筈だ。歌が説明的、散文的になっているのはそのためである。各自が自作をもう一度見直し、もっと歌を引き締めたものにしてもらいたい。

          雁部 貞夫(新アララギ編集委員・選者)



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