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今月の秀作と選評



 (2009年9月) < *印 新仮名遣い>

小谷 稔(新アララギ編集委員・選者)


秀作



吉井 秀雄


落第を長々と詫びる文明のふみ読みてしばし立ち止まりをり


評)
土屋文明記念館での作。榛名山や庭の情景などは型にとらわれやすくて平凡に陥りやすい。この作はあまたの展示品のなかから特に手紙を見つけてその核心をよく捉えている。



太田


部屋の壁にわが影の濃く映る夜ひとり自問すわが歌のこと


評)
部屋の壁にうつる自分の影と自問自答するという孤独な内面的な捉え方が叙情を深くしている。作者の年齢は知らないが学生時代のような求心的な志向がみられて心ひかれる。



新緑 *


我のため付き添い電車に乗りし孫の居眠りており杖を握りて


評)
身体障害の作者の歌にも長く親しんできた。単調な生活ながらよくぞここまで日常の些事を歌になし得た努力に敬服する。電車に乗せたらもう一安心 お孫さんは真居眠りをする。杖を握りて、という結句の写生が生命。



けいこ


理由(わけ)もなくふさぐ思ひを亡き母の山のみ墓に告げてかへり来


評)
墓にその後の何かを報告するという歌はよくある。この作はこれという具体的な訴えはない。しかしわけもなくふさぐ思いに苦しんでいる。そういう訴えようのない塞ぐ思いを受け入れてくれるものはやはり母しかない。


佳作



市村


層雲峡に蝦夷透し百合の赤き花飛沫に濡るるを旅にゐて見つ



評)
その歌で必要なものと周辺的なものがある。周辺的で説明的なものを削って必要なものをよく見詰める。この歌ではそういう学習ができたのではないでしょうか。



金子 武次郎 *


キャンパスの抜け道行けば栗の花匂いて来たり風なき夕べ



評)
栗の花という梅雨時に咲く風物を大学らしいキャンパスでとらえたのが新鮮。風なき夕べという結句がよい。湿った空気のなかでかなり強い匂いが淀んでいる感じをよく捉えている。くちなしはよくあるが栗は新鮮。



まりも


兄五人父の齢を越えたるも父の威厳を継ぐもの居らず



評)
時代、世代が異なると性格も異なることが通例である。それがわかっていても父のもつ威厳がなつかしい。父も母も格別な存在感があった。そういう思慕の歌であって兄たちを軽く見るのが真意ではない。



勝村 幸生


原住民虐殺の過去を子供らに教へてをらずアメリカの教科書



評)
「アメリカの教科書」と自分の捉えた材料を具体的に表現したのでよくなった。原作は「教えてをらず」どまりであったように記憶する。この結句が作者が具体的に現実と接触したしるしなので自分の歌になった。「教えて」を訂正した。



紅葉


夕暮れの土手を走りし利根川の草のにほひを思ひ出したり



評)
地球に帰着した若田さんではないが、草のにおいは大地の匂いであり、若い頃の匂いであったりしていいものである。これは単なる草の匂いでなく、「夕暮れの土手を走りし利根川」という具体的な生活があるのが印象的である。



佐藤 和佳子 *


告知より一年夏のめぐりきて生きて行くこと父と語らう



評)
投稿が遅かったのでもうすこし機会があれば最後の詰めができたのにと惜しまれる。つまり癌の告知をうけたのは、作者か父かあいまいのままになっている。たとえば「生き行く望み父は語らう」とでもすればはっきりする。



はづき生 *


父親のお膳の上に湯冷ましをけさも置きたり薬とともに



評)
原作では作者の単なる傍観であったが改作によってすべて作者の行為となり、父上への気持ちが素直にこもる作になった。


寸言


今月は「けり」という文語の助動詞の使用について幾人か意見が交換できたことが印象的でした。結局ことばというものは、文語短歌によく使われていて見なれ耳なれているものが多く使われている傾向があります。特別な技巧とか「学をひけらかす」とかの目的の使用は排除したい。

          小谷 稔(新アララギ編集委員・選者)



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