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(2011年12月) < *印 現代仮名遣い> |
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星野 清(新アララギ選者・編集委員) |
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秀作 |
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○
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金子 武次郎
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放射能漏らさぬと断ぜし原発の虚像暴きぬ巨大地震は
秋空は晴れ渡るとも震災の瓦礫を前に言葉なく立つ
山上に黒々見ゆる観覧車動かぬままに秋の日暮れぬ
盆過ぐれば朝の冷気に目を覚ます仙台に来て六十年か |
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評)
手堅い一連で、初稿からたちまちここに至るのは見事。3.11以来、この関連の歌は多いが、「…暴きぬ」は捉えどころだ。3首目の4句に手を入れて一首を一息につなげてみたがいかがか。これも震災関連だろうとみて、歌を並べ替えた。 |
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○
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鈴木 あきら
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身の内に楔打たるるごとく聞く隣の家の解体の音
精一杯の笑顔見せたるわが友か仮設住宅に戻りてゆきぬ
台風一過の高空映す鏡の中ぱさりぱさりと髪切られゆく |
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評)
作者の感性がよく働いて歌になっているところ、なかなかのものである。 |
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○
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丹野 藍
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雑踏に紛れてゆけばウインドウに映るわれをり髪の乱れて
「この線画ビュッフェのですね」と言ひし人驟雨の駅のホームにおもふ
地(つち)までも削り取らねば棲めぬ世を人は造りて人は嘆くも |
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評)
この作者の感性にも惹かれる。1首目の結句、この方が自然であろう。2首目、途中で指摘し損ねていたが、駅に「デッキ」のないこともないがこれでよいのではないか。3首目、結句はまだ推敲の余地があろうが、4句までがよく捉えられているで…。 |
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○
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まりも
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犬の死に会話減りしと嘆く吾に小型犬飼へばと子は言ひて来ぬ
店のケージに待ちかねゐしか尾を振りて三か月の仔が吾を見つめぬ
新しき家族に迎へしトイ・プードル一キロ三百を吾が手に抱く |
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評)
1首目、悩んできたところだが、こう言うことで伝わろう。この歌が一連をよく支えている。「一キロ三百を」などやや細かいようだが、ここでは生きている。 |
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○
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Heather Heath H *
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町内に長く聞かざる子らの声今朝賑わいて神輿練り来る
隣り家の犬吠え止まず飼い主は今朝もデイケアに出でて行くらし |
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評)
それぞれの場面を、特に後の歌など、的確に表現し得た。 |
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○
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紅 葉
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ただ生きることの幸せをかみしめぬ原爆資料館のかばねを前に |
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評)
全く何の歌か分からなかったが、原爆に関わる展示を前にしての思いであることが伝われば、このように意味のある歌となる。字余りでも「原爆資料館」と言いたい。 |
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佳作 |
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○
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もみぢ
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鳴子峡の紅葉の渓にゆつたりと一輌電車の遠く走れり
澄み渡る紅葉の峠に見下ろせば家並を隠す白き朝もや
うつすらと白き煙の立ち昇る刈田は泰治の絵画の如し
流れゆく朱き落ち葉を見守りつつ谷川沿ひの山道下る |
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評)
素直な表現に惹かれるものがある。我々の歌は、こういうところから入って継続することにより道が開けていくものだ。 |
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○
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紅 葉
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投稿の七首を選ぶ楽しみを見つけて朝の布団を出づる
さ夜なかに子の歯ぎしりを聞きながら部下への怒りに寝がへりを打つ
秋の日の刈田にオダのなつかしき「もうすぐ日田」とアナウンスあり |
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評)
それぞれ親しみの持てる歌となっている。表現は気取らずに、なるべくこのように平易にするがよい。 |
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○
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Heather Heath H *
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我の作る膳に手合わせ箸取りき病みいし母のまた浮かびくる
秋ごとの林檎を長野に求むれば「線量検査済み」とこの年は言う |
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評)
この歌の背景が幾らかでも感じられれば、迷わず秀作に推したのだが…。後の歌、結句の「なり」を省きたく、少し手を入れた。 |
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○
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なの
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煙突の焔は夕闇を赤く染め製鉄の街今日も眠らず
養殖はもう止めるとの友の声届きし海苔が最後となるか |
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評)
1首目はよく歌われてきた歌ではあるが、整って言い得た。2首目はいろいろと想像させるものがある。それが、老いて止めるのか、採算が取れなくて止めるのか、今回の震災に関わり止めざるを得ないのか…、何かが窺えるようであれば秀歌となろう。 |
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● |
寸言 |
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選歌後記
心の中に醸す時間を大切に
私どもは短歌を「内省の文学」と捉えています。自らの意識や体験、つまり心の内を深く見つめて、その思いを韻律のある言葉にして表すものとの考え方です。
内省のないところに優れた歌は生まれません。内省にはそれ相応の時間が必要です。その過程で言いたいことの中心も見えてくるものです。それを短歌の形に表現して、繰り返し声を出して読み返す。そうすることによって歌は磨かれてくるものです。
同じようなことをまた書きましたが、反射的な対応をつい無視してきた理由もそこにあります。この点を自覚して、どうぞ今後ともお励み下さい。
星野 清(新アララギ選者・編集委員)
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