作品投稿


今月の秀歌と選評



 (2014年11月) < *印 新仮名遣い>

米安 幸子(HP運営委員)



秀作



金子 武次郎


手足萎え起居ままならぬ老体を歳相応と言うも寂しき


評)
短歌を信頼するといえど、現実を見つめて詠うには、それなりの覚悟がいるであろう。本気で短歌にむかう人だけが行き着けるかと思う。初稿の「歳なりです」のままでもよいと思ったのだが、ここでは歳相応を提案してみた。



きじとら


元請けの自分勝手な振る舞いに握りしめた掌に爪痕残る
「してやってる」何度も聞いたその台詞我の貢献無にも等しく


評)
「握りしめたる掌に」とアドバイスしましたが、口語表現の作者なので「握りしめた掌に」と訂正します。爆発寸前の感情を、ぐっと手を握り締めて堪えている。二首目も、言い返したいところを踏みとどまったのであろう。詠まずには居れなかった内面衝迫である。



ハワイアロハ


膿盆にイクラの如き物のあり摘出されし母のポリープ


評)
ハワイ在住の作者が帰国して、母君の手術に立ち会ったときの連作。手術直後の状況を、主観を交えず驚きを詠むことによって、作者の母を思う気持ちも汲みとれるこの作品を推す。「薬品と新築の香のする廊下母の手引きて病室探す」この歌も、先ず嗅覚から詠みおこして、読者にも手術前の緊張感が伝わり良いと思った。



紅 葉


長袖を引っ張り出して走る朝秋は意外に早く来たりぬ


評)
ある朝の気温の変化に、瞬時に順応し「走る」情景がイメージできる。
調子・意味内容ともに無理なく詠まれていて、初稿のままである。初期の頃からすると作者の成長が感じられて、うれしい。「先生の心になって漱石は遺書の終わりを急いているらし」という、『こころ』を素材に詠む試みにも拍手。



ハナキリン


カーテンに止まりし虫をそのままに肌寒きけさ暖を分け合う



評)
さしたる助言もしなかったと思うのに、何かを感じ取り根気よく仕上げた。巧まずして人柄のにじみでた「暖を分け合う」であろう。他の二首も魅力があるが、気持ちのあるこちらを推す。


佳作



秋島 直哉


「我愛イ尓」主語と動詞で言うぼくの彼女の言葉に打ちのめされて


評)
今回初投稿の作者。感嘆符(!)は省き、「」で括った。「我愛イ尓」ウオーアイ・ニーと読むのだろうか?
「主語と動詞で言う」から打ちのめされたのだらうか?
土屋文明の「日本語の抑揚乏しきを思ひ知りさびしみし北京の夜も忘れむ」にもあるように、独特のイントネーションによるところ、大ではないかと感じたのだが。



波 浪


涼風をわたしと共によろこびてこのあしたよりルコウ草咲く



評)
ルコウ草は漏斗形をした濃紅色の小花で、蔦蔓である。上の句の捉え方には
「病一つ出づれば素直に従はむ米寿過ぎたるこころたひらかに」にも通う、年長者の自在さと落ち着きがある。



栄 藤


歌詠むと励みて磨く感性の故に損なはるるもののあるべし


評)
「べし」とあるから、作者自らへの思いであろう。損なわれるものは何か。当HPからの感懐かも知れない。印象的な作品である。「誠意あればもともと拉致などしないもの誠意ある対応する筈もなし」もよく判る。



時雨紫


人型に風で膨らむカーテンに背中押されてガラス拭き終う


評)
原作の結句「終えつ」の字余りを避ける意味と、強調しすぎになるのを避けて、「拭き終う」と終止形にした。改稿のたびに、イメージが具体的になった。作者自身も達成感があったかと想う。見逃しやすい日常の一齣から、詩を編みだしている。



鈴木 政明


秋晴れのコキアの丘にひとり立ち太平洋を独り占めする



評)
原作の「独り示する」は占めのつもりであろう。初めての投稿者である。コキアとは箒草のことで、近年公園などに群稙して、景観を提供している。そのコキアの丘からの眺望であり、読者にも爽快な気分がつたわる。今後を期待する。



石川 順一


鉢植えの金木犀のオレンジが撮影せよと芳香放つ



評)
近年「日記」と称して、写真入りのブログ発表が盛んなようである。この一首もそのための撮影だろうか? そのように読みとると、作者の高揚感が伝わる。



寸言


選評の中でも述べたが、現実をみつめて詠うには、それなりの覚悟がいる。
「真情、真心を言葉に現しさえすればよい」とはいえである。 今月は、真実吐露、内面衝迫ともいえる作品に出会い、心を打たれた。
また、新しい作者をふくめ、日常の何気ない一齣を見逃さず詩を編みだす作品にも、心ひかれた。何度も読み返し声にもだしながら、洗練されたことばを使いこなせたらと思っている。

(新アララギ会員 米安 幸子)



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