(2) 「人恋はば」
塚本邦雄氏の代表作とか絶唱とか言われるものに次の作がある。
馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人恋はば人あやむるこころ
なるほどこれはすぐれた歌だと私も思う。ただ一つ気になるのは、「人恋はば」という言い方である。
「恋ふ」という動詞は上二段活用であるから「ひ・ひ・ふ・ふる・ふれ・ひよ」と活用する。
「ば」という助詞を用いて仮定条件を表わす時は、動詞の未然形に続けるから、ここは語法的には「人恋ひば」とすべきところなのである。万葉にも「もとなかくのみ恋ひばいかにせむ」(五八六)「おくれゐて恋ひば苦しも」(三五六八)などとあり、「恋はばいかにせむ」などとあるわけではない。
しかし塚本作の場合「人恋ひば人あやむるこころ」では何だか落ちつかないし、語感も悪いように感ずる人が多いのではあるまいか。語法上は「人恋ひば」が正しくても、「人恋はば」のほうがよいと考える向きもあるに違いない。
こういう表現の先例としては、大正初期の中村憲吉の歌に「潮ざゐの夕香はぬるく身をそそれ恋はじとすれど渚潮ざゐ」というのがある。これは長塚節から「我々は祖先が幾百千年の間に自然の約束から成りたった言語は--どうしても其約束に従はねばなりません」と評せられ、歌集「林泉集」に収める際には「恋ひじとすれど」と訂正した。しかし憲吉はその後にも「うつし世に久遠のみちは恋はずともわが下凡さへ嘆かで過ぎし」(軽雷集)などとやって、前のことは忘れてしまったようだ。大体、憲吉作品は語法的不備をつつこうとしたら、いくらでもつつける。しかしそういう作者のほうが不備のない人の作品より、ずっと優秀であることも鉄則であると言ってよい。
どうも「恋ふ」という動詞は、「乞ふ」などと混線するためか「は・ひ・ふ・ふ・へ・へ」という四段活用へ移行したがる傾向があるようだ。
筆者:「新アララギ」代表、編集委員、選者 |