短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

 (3) 「寒けし・安けし」

 万葉集巻一(七四)の文武天皇の御製に

  み吉野の山の嵐の寒けくにはたや今宵もわが独り寝む

というのがある。「寒けく」は、最近「寒シのク語法」というふうに説明される。 こちたき論義はが、要するに寒シという活用語を名詞化する語法で「寒いこと」という意になる。
「寒けくに」は「寒いことなのに」と解してよい。この「寒けく」が後に「寒けく」という形容詞を派生させる。岩波国語辞典は「寒けし」を「サムケクを形容詞連用形と誤って出来た語」と説明する。これは万葉時代にはまだなかった。(あったとすれば「山の嵐の寒けきに」としてもよいのだ。)
国歌大観の索引を引くと拾遺集の「秋の夜風の寒けきに」などを始めとして、「寒けきに」が十例ほどもある。恐らく平安中期の歌人が右の万葉集巻−の歌を見ているうちにこの形容詞を作ってしまったのだろう。「寒けし」という終止形くあるかどうかは、国歌大観では分らない。今の我々は「寒し」で音が不足の時は「寒けし」とやる。それを今でも誤用だとする人もいるが、平安時代からとにかく存在する形容詞なのだから、今更誤用と決めつけてもしょうがないではないか。

「寒けし」に似ているのが「安けし」である。結句など「安けし」で収まらぬ時は我々は「心安けし」とやる。本当に心安けくやってしまう。この形容詞の発生は比較的新しいと思われる。勅撰集等にはあるまい。 万葉集巻十五(ニ七二三)の

  あしひきの山路越えむとする君を心に持ちて安けくもなし

という茅上娘子の歌の「安けく」は、「安シのク語法」であって、「安けし」という形容詞を使ったのではない。昔の辞典は別として広辞苑も「安けし」を形容詞として万葉の歌「安けくもなく悩みきて」(三六九四)を引くのは、この辞典らしくもない大ミスである。

 なお山部赤人の「沖つ波辺波静けみ漁りすと藤江の浦に舟ぞ騒げる」(九三九)の第二句は原文「辺波安美」であるから、岩波文庫本の新訓万葉集などは「辺波安けみ」ともとは訓んでいた。 これは「安けみ」という語がなけれは成立しない訓である。
 この「安けし」は、いつ頃から使われるようになったか分らないが、私は江戸時代からではないかと想像する。田安宗武に「しめはふる岡のつかさの清ければいもひも安しぬさも安けし」という歌があり、師匠の賀茂真淵もこの「安けしlを使っていたと記憶する。

筆者:「新アララギ」代表、編集委員、選者

「何を 如何に」 新津澄子


  「何を(題材)詠み、如何に(表現方法)詠むかは、短歌の実作者にとって永遠の課題だ」
が、如何に詠むかの基本の「キ」について一言。  まず、「歩む」「鳥の声聞く」「嘆きたり」と述べれば、そこに主題がなくても「われが歩む、われが聞く、われが嘆く」のは自明のこととなる。だから、われ、わがを入れるのは強調する場合で普通は入れなくてよい。つぎに語の重なりに気をっける。「馬から落ちて落馬して」式の重なりもさることながら、意味の上の重なりにも気を使いたい。「そよそよとやさしき風」「花の色鮮やかに冴ゆ」「片隅にひそと静まる」「涼しき風のすがすがとして」など(意味の重なりを避けて)−つ言えばよい。三十一文字の短い詩型なので十分に心を使うべきだ。 また「見る、聞く、仰ぐ」などは使わないで表わす工夫をしてほしい。「蝉の声聞く」といわなくても、「花咲くを見る」といわなくても、「空を仰げば」もなくてもわかる筈だ。無駄な語を省くことだ。 よく言われる「単純化」というのはこのような無駄な言葉を削ることからはじまる。一首の中にあれもこれも詠み込もうとすると、ごたごたして「わからない歌」「くどい歌」となることに留意してほしい。

筆者:「新アララギ」編集委員、選者

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