短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

 (4) 「思ほえば」(1)

  「思ほえば」という言い方について記してみたい。
 万葉集に盛んに使われた動詞的な言葉に「思ほゆ」がある。 「自然に思われる」の意で、「瓜食めば子ども思ほゆ」は、「瓜をたべているとひとりでに子どものことが思われてくる」ということになる。 この「思ほゆ」が万葉以後「思ほえず」「思ほえて」「思ほえぬかな」のような形でしばしば使われたが、「思ほゆ」という終止形は古めかしく感ぜられたためか、殆ど使われず,明治以後になって復活したのは興味深い。
しかしそういう歴史的な変遷のことは、今はこれ以上言わぬことにして、万葉集巻十七に

  今のごと恋しく君が思ほえばいかにかもせむするすべのなさ(三九ニ八)

という大伴坂上郎女の歌がある。 甥でもあり娘婿でもある家持が越中守となって 赴任する時に贈った歌で「これから先も、今のようにあなたが恋しく思われるならどうしましょう。 どうしようもありませんわ」という甘ったるい送別歌である。 女房の母親からこんな歌を贈られてはさぞ気持悪かっただろうと思うのは下衆の勘ぐりかも 知れない。 この歌の「思ほえば」(つまり、「思ほゆ」の未然形「思ほえ」に「ば」がついた形。)というのは万葉にニ例あるが、平安時代以後は見られないのに近代になって復活した。 今、茂吉の用例を示そう。

  目をあけてしののめごろと思ほえばのびのびと足をのばすなりけり(赤光)

  おもほえばかなしくもあるか熱たかく七日ふして父は死にゆきしとふ(ともしび)

 しかし、これらの用例は明らかに万葉集の用法とは違うのだ。 坂上郎女の「思ほえば」は、これから先のことを仮定しているのに、茂吉のは「思われるので」と既定の条件に使っている。 「思ほゆ」は下二段活用だから(こういう文法を持ち出すと、もう頭が痛くなる人が多いようだが、御勘弁を乞う。) 本当はここは、「思ほゆれば」としなければ正しくない。 しかしそれでは調子を損なうから「思ほえば」としたのだが、これは未然形と已然形の混同で正確に言えば茂吉のこの「思ほえば」は誤用である。 だが、これは茂吉が先例を開いたものではない。 土井晩翠の「天地有情」に「にがき涙もおもほへば今に無量の味はあり」 赤彦の明治三十五年の詩に「おもほえば君が如くに何ものか静かなるべき」等がその例である。 茂吉のニ例も同様であるとも言える。 茂吉はこの誤用に気づいたらしく、その後使用しなくなった。 ところが現代でも平気で使う御仁がいる。 しかも「思ほへば」と仮名違いまで加えて。 晩翠も「思ほへば」とやり、長塚節にも「ししむらの引かゆがごとも思ほひて脛のふくれのいたましき宵」の例があるから笑ってはいられないが、「おもほふ」などという動詞はもともと存在しないのである。 (つづく)

筆者:「新アララギ」代表、編集委員、選者

「言語感覚そのもの」 三宅 奈緒子


    身の回りのごく通常の題材でも、そこにこまかく心がゆき届いていて、自然に順直に詠われると、快いリズムが流れる。 新しい題材であっても、用語やリズムが生硬で、結局は単なる報告歌になっていたり、軽くすべりすぎて低俗なものになったりと、自然な感動を読者に与えることは中々に難しい。
作者にとって自然な題材を自然に詠うということが「平凡」として一概に片付けられるとしたら、それは間違っているのではないか。
 題材の如何は大事ではあるが、その前に作者の感じる心、言語感覚そのものこそ基 本であることをかみしめてみたい。

筆者:「新アララギ」編集委員、選者

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