短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

 (5) 「思ほえば」(2)

  終止形の「思ほゆ」を使った例として、

アムールの川の川原のさざれ石をひりひてよせし君を思ほゆ
     正岡 子規

雹まじり苗代小田にふる雨のゆゆしくいたく郷土(くに)をし思ほゆ
     古泉 千樫

やまがたの野(ぬ)をしおもゆ白頭翁(おきなぐさ)並みふふむらむ野をし思ほゆ
     斎藤 茂吉

 のような「を思ほゆ」という言い方はいかがなものであろうか。 先にも言ったように「思ほゆ」は「思われる」という自発を表す意であるから「を」を取らない。 しかしこの形は今でも時々見かける。 子規の歌で言えば「君を思ほゆ」は、「君の思ほゆ」「君し思ほゆ」などとすべきところであった。
 なお、現在の我々は「思ほゆ」をいかに発音すべきであろうか。 中学校の国語の教科書などで万葉集の人麿作「近江の海夕浪千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ」を教材として載せるのはよいとして、「思ほゆ」をオモオユと発音せよと指示しているのを見かけるのは不愉快である。 ホがオとなるのは発音の変化の法則には違いないが、オモオユとは歯の抜けたような発音でおもしろくない。 人麿自身はオモフォユと発音したか、あるいはオモポユと言ったか知らないが、要するに万葉時代の人が発音した通りには今の我々には発音できない。
だから「思ほゆ」はオモオユでもいいとは言いたくないのだ。 私どもはオモホユで言いならして来た。
 「思ほえば」は、オモホエバと読んで来た。 感覚的な好みの問題ではあるが、やはり「ホ」を生かした発音にしたいのである。 今の新仮名主張の歌人連の歌にこの「思おゆ」とやったのを見ると、ちょっと滑稽な気がする。
新仮名を使うような人は、もともと「思ほゆ」などというクラシックな言葉は用いないほうがよいのではないか。
 斎藤茂吉全集(再版)の第四巻の「短歌索引」を今見ると、これは文字は原作のままで、表音式の五十音で並べられてあるが、初句の「おもほえず」「おもほえば」は、「万年青の実」のあとに続いている。 オモトノミのあとにオモホエずが来るというのは、オモホユのホをはっきり「ホ」と発音していることになる。 これはわが意を得たりというところだ。 しかし、それでは「たまきはる」は、タマキハルと読むべきか、タマキワルか。 「恋ほし」はコホシか、コオシか。 要するにもう自分の好みで読むほかはないのであろう。 こういう例は拾えばまだまだあるに違いない。

筆者:「新アララギ」代表、編集委員、選者

「若い人々にひとこと」 雁部 貞夫


  新しい世紀を迎えた「新アララギ」新年号のキャンパス欄の出詠者は三十ニ名。 五ページを占めてなかなかに壮観であった。 この姿が是非とも定着したものであって欲しいと強く望んでいる。 しかし、現実には二月号では欠詠、休詠もありで、かなりその数が減じている。 というわけで、選歌本欄に比 べると月々アップダウンの激しい欄になっている。
 先の見え難い時代ゆえに、短歌という小詩形に全てを賭けるという気概が起こりにくいというのも解らぬではないが、十分なトレーニングを積まないうちに見切りを付けてしまうのは安易すぎる結論の出し方である。 今月は欠詠しようかと作歌に逡巡する気持が湧いた時は、勇猛心を振るって、もうひと粘りしてもらいたい。
 ところで、私は十年近く前に或る大学の短歌誌を毎号送られて、一人の若者に注目していた。 その若者は平成五年に「歌壇賞」(本阿弥書店)を得て、その後の作品と併せて、この程、第一歌集「CANNABIS」(不識書院刊)を上梓した。 その著者、目黒哲朗は「後記」で次のように記している。
  「今は、天与の出会いの数々に感謝の意を捧げたい一念です。短歌という詩形のめぐる人と、物と、心との出会いに」と。  短歌という詩形を「偉大」と記すこの信頼感。 これまた若者の世界だ。

筆者:「新アララギ」編集委員、選者

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