(6) こほし・こほしむ (1)
稲日野も行き過ぎがてに思へれば心恋しき可古の島見ゆ
万葉集巻三の人麿の旅の歌の一首である。 人麿の歌もいろいろあるが、短歌形式のものでは、この歌などは人麿の最高に位置せしめてもよいのではないかと思われる。 茂吉に「名歌と秀歌」という文章があったが、この歌は名歌というよりは秀歌と言うべきであろう。 この秀歌のキイワードは、「心恋しき」である。 この一語あるために永遠の傑作となったと言ってよい。 赤彦の「山さへも見えずなりつる海(わた)なかに心こほしく雁の行く見ゆ」は、はるかに千二百年をへだてて、人麿作と呼応し、それと拮抗しようと意図した作であろうが、そして佳作には違いないが、とても人麿作の豊満には及ばない。
人麿(私は近頃流行の「人麻呂」という表記は好まぬから書かない)の歌の「心恋
しき」は原文「心恋敷」である。
ここは昔からココロコヒシキと訓まれていたのを、ココロコホシキと改めたのは、細かく調べたわけではないが、どうも江戸時代末期の「万葉集古義」からであるらしい。 それは今、万葉仮名は控えるが、巻五に「百鳥(ももとり)の声のコホシキ春来たるらし」(八三四) 「いかばかりコホシクありけむ松浦(まつら)小夜姫」(八七五)があり、また書紀に「君が目のコホシキからに泊ててゐて」の例があるからで、つまりコヒシよりコホシのほうが年代的に古い語で、人麿の歌もコホシと訓むほうがよいと「古義」の著者は判断したのだ。
だから高市黒人の「旅にして物恋敷爾山下の赤(あけ)のそほ船沖にこぐ見ゆ」(ニ七○)も勿論モノコホシキニと訓んでいる。 しかし、総索引で万葉集の表記を調べると、コホシの仮名書きは先のニ例だけなのに、コヒシは二十例ほどある。 恋敷ならばコホシキともコヒシキとも訓めるが、仮名書きは断然コヒシのほうが優勢なのだ。 家持が越中で詠んだ「たまくしげニ上山に鳴く鳥のこゑのコヒシキ時は来にけり」(三九八七)という愛すべき小品も、「こゑのこほしき」ではないのである。 当時はコホシは古くさい語感を伴うものと見られていたのかも知れない。
さて、万葉時代にあってもその後期には使用されなかったコホシが、千二百年を経
て堂々と復活する。
そういう例は何もコホシだけに限らないが、今はこのコホシを取上げるのである。 江戸時代の万葉調歌人にもコホシは顧られなかったようだ。 人麿の歌をココロコホシキと訓んだ「古義」の著者、鹿持雅澄の擬古的な万葉ぶりの歌の中にはコホシの使用も見つかるが、あとは平賀元義の歌集にも見当らない。 明治になってからは子規もまず使っていない。 こういうことは細かく調査しなければ本当はいけないのだが、私の見当では、このコホシを復活させ普及せしめる因を作った最初の人は「古義」によって万葉集を読んだ伊藤左千夫ではないかと思う。
筆者:「新アララギ」代表、編集委員、選者 |