(7) こほし・こほしむ (2)
左千夫は明治三十四年あたりからこの語を使い始め、「名ぐはし九十九の谷も雨故に見ずてかゆかむこほしけまくに」などとやっているが、我々にしたしいのは「冬のくもり」の中の「独居のものこほしきに寒きくもり低く垂れ来て我家つつめり」「ものこほしくありつつもとなあやしくも人厭ふこころ今日もこもれり」のニ首である。 しかし、左千夫はコホシ一点張ではなく、「三ヶ月湖にて」では「ここにして妹が恋ひしもゆふ雲のおりゐ沈める高野原の湖」とコヒシを使っている。 コホシとコヒシとは微妙な差であるが、母音のO音と
I音のひびきに重さと軽さの違いがあると言えよう。 左千夫の「ここにして妹が恋ひしも」は「妹がこほしも」とするほうが、より重々しくなってこの歌としてよかったのではないかという気もする。
茂吉の用例は、「赤光」の例の「おひろ」の連作中の「紙くづをさ庭に焚けばけむり立つ恋(こほ)しきひとははるかなるかも」が初出である。 (第四句は初版も定本の「赤光」も「恋(こほ)しきひとは」である。 佐藤嘉一氏の「索引」に初版のほうを「恋しき人は」とし、コヒシキの位置に置くのは正しくない。 茂吉はコヒシは四例ほど使用しただけだが、(「寒雲」の「きさらぎの二日の月をふりさけて恋しき眉をおもふ何故」のように「恋しき」にルビを振らない場合はコヒシキと読ませるのであろう。) コホシのほうは、コホシムという動詞に働かせたのを含めると二十五例ほどある。 「もの恋(コホ)しく家をいでたりしづかなるけふ朝空のひむがし曇る」(あらたま) 「春されば落葉の中のひとつ萌ただひとりのみ恋(コホ)しくもあるか」(寒雲)などは私の忘れ難い歌だ。 赤彦や憲吉作にもコホシはあるが、茂吉ほど多くはない。 大正昭和の万葉調流行の中で、コホシは歌語として普遍化され一般化されたが、それには茂吉の歌も大いにあずかっているに違いない。
なお茂吉の表記は、漢字を使う場合はいつも「恋(コホ)し」であるが、今は「恋ほし」と書く人が多い。 これはルビをふらないですむ一つの工夫であり、この表記は認めてもよいと考える。
筆者:「新アララギ」代表、編集委員、選者 |