(9) 知らなくてありなむものを
長塚節の明治四十五年の作に「病中雑詠」と題する哀切な連作がある。「生きも死も天(あめ)のまにまと平らけく思ひたりしは常の時なりき」という歌で始まる作品群であるが、その中に、
知らなくてありなむものを一夜ゆゑ心はいまは昨日にも似ず
というのがある。喉頭結核を宣言されて、動揺する心をさながらに詠んでいるのだが、さてこの「知らなくてありなむものを」をいう表現に何の抵抗も感じないであろうか。「知らなくて」の所に何か引っかかるものがないであろうか。口語では勿論「知らないで」と言う。しかしそれを文語に直しても「知らなくて」とはなるまい。それは口語の「知らない」を、文語にして「知らなし」とは言えないのと同じである。口語の助動詞「ない」は、そのまま「なし」として文語には使えないのだ。だからたとえば「行かない」は「行かなし」とはならないのである。
節の歌集を読むと、若い時から万葉語を駆使して堂々たる格調の歌を作っているが、その作品のところどころに規範的な語法から見ると、いささか踏みはずした破格的な表現が顔を出しているのに気づく。そして本人はそれを意識していなかったのではないかと思われる。もっともこれは節だけではない。根岸派の歌人連中は子規以下皆やっている。
「知らなくて」式の言い方を、なお節の「病中雑詠」から「鍼の如く」にかけての歌の中から拾うと、
あまたたび冬には逢へど枯れざりし庭のをだまきかれなくてあれな
山茶花よそをだに見むと思へるに散らなくあれな我が去(い)ぬるまでに
桑の根の灰はいぶせし火を吹くと皮がはねつる吹かなくてあらむ
ちるべくも見えなき花のベコニアはかやの裾などふりにけらしも
などが見つかる。「かれなくて」「散らなく」「吹かなく」「見えなき」は、みな口語で発想して文語風に表現しようとして、口語の地金が出てしまったところなのだ。「ちるべくも見えなき花」など特に違和感を覚えてしかるべきなのに作者は何とも感じなかったのであろうか。もっとも蕪村の句に「さみだれや鵜さへ見えなき淀桂」というのがる。蕪村も規範的な文法を破る点では、人に負けないほうの人だ。
では「知らなくてありなむものを」は、どういう風に言えばよいのか。声調の問題をぬきにして言えば「知らずしてありなむものを」とすればよい。「かれなくてあれな」は「かれずにあれな」「見えなき花」は「見えざる花」などと言えば一応崩れた言い方を避けることができる。しかしそれではどれも調子も悪くなるので、そういう言い換えだけでなく、もっと根本的に一首全体の表現を考えるべきであるかも知れない。「鍼の如く」の中には「蚊帳の外に蚊の声きかずなりし時けうとく我は眠りたるらむ」という歌もある。これは「蚊の声きかなくなりし時」ではないから、これでよいのである。(続)
筆者:「新アララギ」代表、編集委員、選者 |