(10)知らなくてありなむものを(続)
なお万葉集のたとえば「山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく」(一五八)の「知らなく」は、口語に訳せば「知らないことだ」という意になるが、これは「知らず」のク語法で、口語の「知らなくても」というような言い方の「知らなく」とは性質を異にする。では「けふよりは顧みなくて大君の」という例の防人の歌(四三七三)はどうか。これも口語訳は「顧みないで」としてもよいが「顧み、なくて」という組立てだから「顧みることもなしに」などとするのが、表現に即した正確な訳になる。「顧み」は名詞、「なくて」の「なく」は形容詞である。(ついでに言えば、人麿の「かへりみすれば月かたぶきぬ」(四八)のカエリミ、スレバと読むべきで、カエリ、ミスレバと読むべきではない。)
なおついでに言えば、左千夫の「葉鶏頭(かまつか)をいやしと云へ秋ふけて色さびぬれば飽かなくおもほゆ」の「飽かなくおもほゆ」も変な語法だ。「飽かなく」の所だけ口語調である。「飽かずおもほゆ」でよかったのではないか。茂吉の「赤光」に「ひむがしのともしび二つこの宵も相寄らなくてふけわたるかな」というのもある。これは初めのアカネ発表では下句「相よらずして夜ぞふけわたる」であった。「相寄らなくて」は、やはり口語調なのである。捜せばこういう例はまだまだ見つかる。
以下もうくどくど言わないが、要するにたとえば口語の「見えなくなった」を歌の上で「見えなくなりぬ」としても、それは本来、文語とも言えないのでちょっと文語に見せかけただけだ。しかし今の我々の歌には口語脈がだいぶ入り込んでいるし、文語表現でも古代中世の語法では律し切れないものも多い。「見えなくなりぬ」なども認めるというなら(茂吉に「大いなる国のいきほひの渦なかに君がいのちも見えなくなりぬ」(寒雲)がある。)先に私が引いた長塚節の「知らなくて」などもそのまま受け入れてよいと言えよう。しかし「散るべくも見えなき花」などは、とにかく熟さぬ幼稚な表現である。これなどは認めたくない。
付記。二六頁の「こほし、こほしむ」についての文中、左千夫の「こゝにして妹が恋ひしもゆふ雲のおりゐ沈める高野原の湖」(この表記は岩波、左千夫全集による。)の「妹が恋ひしも」は「妹が恋ほしも」のほうがよかったのではないかと書いたが、岩波の増訂正左千夫歌集ではその通り「恋(こほ)しも」となっている。しかし原作はやはり「恋(こほ)ひしも」である。歌集を出す時、門人の人々が勝手に直したらしく、これはちょっと行きすぎであろう。
なお茂吉の「こほし」の初出を、「赤光」の「恋(こほ)しき人ははるかなるかも」としたが、それは歌集のことで、実際にはもっと早く明治三十九年作に「くだちぬるさ夜の寝ざめに暗にして我のこほしき妹が目に見ゆ」がある。
筆者:「新アララギ」代表、編集委員、選者 |