白き紫
歌人連中と話しあっていて、いつも不満に思うことは、言葉について話せないということである。一つ一つの言葉そのものの意義とか歴史とか、表現法とか、あるいは表記、仮名遣の問題等についての論議がどうも少いのだ。歌人が言葉に関心を持たないということはどういうことだろう。と言っても、ここで私が提起する事がらが、時には全く微細なことで、どうでもいいようなことも多く、ひとりで興がっているにすぎない場合もあるのだから、あまり威張れない。今月もまたしかり。
さて、伊藤左千夫の明治三十三年作に次の一首がある。
夕されば青きむらさき色をなみ只白くのみあやめは見ゆる
これは葛飾四つ木の吉野園に行った時の作。吉野園は名園だったが、今は団地と学校が建ってしまった。さてこの歌の「青きむらさき色をなみ」とはどういう意味か。恐らく「青い葉も紫の花も色を失って」ということだろう。しかし「青き」「むらさき」と、形容詞と名詞を並べたところに無理がある。それから似た用法で同じく左千夫の三十四年の長歌「鳳仙花」の中に「若草のつまくれなゐの、花さはに白き紫き(ママ)ゑみ咲きて」となり、同じ時の短歌に、
庭先のつまくれなゐの群生の白きむらさきまづ咲けるかも
というのもある。この「白き紫」は白っぽい紫というような意味ではなく「白きと紫と」という意で、色を並列させたつもりであるに違いない。シロキムラサキと、キの重なる音に気を取られて、無理な用法を犯してしまったと言えよう。こういう用例は、左千夫より古い時代にもあるのではないか。例えば江戸時代の小唄などにもありそうである。
長塚節も左千夫と吉野園に行ったおり、
菖蒲草白きむらさき花ごとに池をかぎりてううるべらなり
と詠んでいる。そうすると、どうも先例がありそうだ。
時代は進んで戦後の久保田不二子(赤彦夫人)の歌に、
一八の白き紫庭にきり街住の友をたづねてゆかな
枯芝のなかに咲きたる菫草しろき紫霜をかむれり
がある。「白き紫」はひそかに潜流となって生き続けたのである。
三好達治の詩集「花筐(はながたみ)」(昭19)をいつかめくっていたら、
風にさゆらぐ山藤の
白きむらさきいづれあはれ
いづれもあはれ日の十日
云々という詩を見つけた。ここにも「白き紫」が使われていたのだ。三好達治は、左千夫などの用例を学んだのであろうか。恐らくそうではあるまい。明治の新体詩あたりに「白き紫」式の言い方は、捜せばみつかるのではなかろうか。とにかく三好達治の詩にまで「白き紫」が飛火しているのが愉快だった。「白き紫いづれあはれいづれもあはれ」であるから、「白き」と「紫」と対比していることは明瞭である。
(昭和59・11)
筆者:「新アララギ」代表、編集委員、選者 |