短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

コシとキシ

 昨年の「明日香」の誌上で、成瀬晶子さんが「来し」という用語の読み方に触れて、これはコシと読んでもいいし、キシと読んでもいい、どちらでも好きなほうを取ればいいというふうに記されていたと記憶する。そのことにつき一言したい。
 回想の助動詞「き」は、普通は動詞の連用形に接続する。ただし「来(く)」「為(す)」という動詞(カ変とサ変)だけには、なぜかコシ・コシカ、セシ・セシカというようにその未然形に接続するのが古来の通例である(コキ、セキという形は見られない)。「来(く)」のコシとなる例をあげれば「献(まつ)りコシ御酒(みき)ぞ」(古事記)「慕ひコシ妹が心の」(万葉集)「コシ時と恋ひつつをれば」(古今集)「比べコシ振分け髪も」(伊勢物語)「コシかたをさながら夢に」(新古今集)等枚挙にいとまがない。勅撰集の最後の新続古今集までコシであって、単独にキシの形は現われない。
 ところが、源氏物語には「来(き)し方」の形で、キシが出現する。成瀬さんも数字を挙げたと思うが、今改めて「源氏物語大成」の索引を引くと、コシカタが三例なのにキシカタは五十一例もあって、断然キシカタがコシカタを圧倒する。キシならば、ほかの動詞と同じくその連用形にシが接続することになる。しかし「大成」の索引を見ても、コシと単独で用いられたのは十二例あるのに、キシというのは一つもない。つまりキシカタという形で慣用的に使われても、キシだけでは使われないということだ。源氏物語では「来(き)し方行く先」「来し方行く末」と一続きの語として使われる場合も多い。
 キシカタは和歌にも使われる。現在角川書店から私撰集私家集を含めて「新国語大観」が四冊刊行されているが、その索引を見ると、平安時代の途中から室町時代にかけて、キシカタとコシカタは、双方が入り乱れて使われている。しかしやはり単独のキシは見当らない。「きしみち」は「来し道」かと思うと「岸道」であったりする。キシと岸を掛けた例もあるかも知れないが。
 要するにキシはキシカタという形だけは存在したが、そのほかは常にコシであり、それが正当な用法であるということは、明きらかであろう。

  はるばると薬をもちて来(こ)しわれを目守(まも)りたまへりわれは子なれば
                               茂吉 「赤光」

  来(こ)し方の悔しさ思(も)へば昼磯になみだ流れてゐたりけるかも
                               憲吉「林泉集」

 私どもはいつでもこのコシを守って来た。木俣修氏は歌会で「来し」をキシと発音する人がいると、大いに叱責されたと言う。近藤芳美氏の近著「歌い来しかた」も、御本人がコシカタと発音するのを聞いた。でも口語で来たというからキシと言ってもいいではないかと言う人がいるならどうぞ御勝手にである。
                            (昭和62・4)

筆者:「新アララギ」代表、編集委員、選者

寸言


名歌記憶の勧め

 皆さんに名歌を記憶することをお勧めしたい。 きちんと数えたわけではないが、私が頭に記憶している短歌の数はいくつあるのか。
おそらく数百首はあると思う。 万葉集の柿本人麿からはじまって歴代の有名歌人、とくに正岡子規以下アララギ系の歌人、伊藤左千夫、島木赤彦、齋藤茂吉、土屋文明など一人について10首から20首は記憶している。 ところで、これらの記憶している歌のほとんどは若い時に覚えたものである。
 年をとってからの記憶は長持ちしない。
若い時は、覚えようとしなくても内容に感動すると頭に残るらしい。記憶力というのは頭の構造のよさではなくて、その物に対する関心の切実さ興味の強さによるものだと思う。 頭にいつでも取り出せるよい名歌を溜めて欲しい。

小谷 稔 (新アララギ編集委員・選者)

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