短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

さびしむ

松かぜのおと聞くときはいにしへのひじり聖のごとくわれは寂しむ

 茂吉の近江蓮華寺の一首。寺にこの歌の歌碑がある。歌集は「たかはら」に収められている。昭和五年作。茂吉の名歌のひとつであるが、結句の「われは寂しむ」に、かすかな違和感をいつも覚える。それは、この歌に初めて接した時からそうだった。「寂しむ」という動詞に耳慣れないひびきを感じたためである。そして「はいにしへの聖のごとくわれは寂しむ」という表現に、オレは寂しがってるんだぞと、力んでいるようなポーズをも感じないではなかったからである。

 「寂しむ」については、広辞苑第三版に「さびしがる。さびしく思う。『悲し』『悲しむ』の場合と同じく、形容詞の動詞転用。現代の和歌に多く用いる。」とある。これは初版からこういう説明だったと思う。「現代の和歌」でなく、「現代の短歌」と言ってほしいところだ。小学館の日本国語大辞典には見えないが、その系統下にある国語大辞典及び言泉には「さびしいの動詞化」として「秋をさびしむ」などという用例を挙げている。「秋をさびしむ」などという口語で言うものか知らん。

 茂吉の「寂しむ」を、なお三首ほど挙げてみよう。

朝あけて父のかたはらにを食すいひ飯の立つしらいき白気も寂しみて食す

かりずみの家に起きふしをりふしの妻のほしいままをわれは寂しむ

山のうへの氷のごとく寂しめばこの世過ぎなむわがゆくへ見ず

 以上は「あらたま」「つゆじも」「白桃」の各一首である。「茂吉索引」を見ると、「寂し」は圧倒的に多いが、「寂しむ」はわずかである。「赤光」の明治42年の所に「おとろへし胸に真手おき寂しめる我に聞ゆる蜩の声」があるが、これは大正十年の改選による形で、初版には「寂しめる」がない。私は明星派系の歌人等の作物には目が行かず、片寄りを免れないが、「寂しむ」が歌人のなかにやや一般化したのは、大正半ば頃からではあるまいか。

寂しめる下心さへおのづからむな虚しくなりてあか明し暮らしつ

いまだわがものに寂しむさがやまず沖の小島にひとり遊びて

 前のは赤彦の「太攫集」、次は迢空の「海やまのあひだ」より引く。このあたりになると、あまり違和感もないようだ。

 「寂しむ」は古典に見えない。角川の「新編国歌大観」五冊の索引を見ても出て来ない。万葉巻ニ(二一七)の「若草のその夫の子は さぶ寂しみか思ひてね寝らむ」の「寂しみ」は、諸説あるが、動詞的な用法とも見えるけれど、当時「寂しむ」の形があったわけではない。「寂しむ」は、「こほ恋しむ」「すが清しむ」などと同様に、近代の歌人が作った動詞であった。

                            (昭62・11)


           筆者:「新アララギ」代表、編集委員、選者


寸言


普通の言葉で

 分からない歌のその殆どは「歌を作るんだぞ」と身構えて、特別な事態・特別な言葉を用意するために起る。私が一八歳で初めて歌を作ったときの話。荒川の鉄橋を電車で渡って登校していた。その上空を「荒鷲」が遠ざかるという歌を作った。すると先生が「あんな処を鷲が飛ぶかねぇ?」とおっしゃった。私の幼い頃は大人も子供も軍歌ばかり歌っていて、「ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ」とか「荒鷲は行く雲の果て」とか、みな日本の飛行機をそう言ったのである。なにしろ歌をつくるのだから飛行機をそのまま飛行機などと言ってはいけない。私は真面目に身構えた。結果教室に笑いの種を提供する羽目になってしまった。

 春早い丘で草の萌え出る音を聞いた、という歌を作ったら「どんな音だったか」と大きな目で問われて参ったと書いた人があった。問うたのは私に「あんな処を鷲が…」と言ったと同人物、五味保義である。以来私は嘘と気取りを一切止めた。まずここからが始まりと思っている。プラスアルファーはその中から、作者の人格と共に必ず匂ってくる。


                      倉林 美千子


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