短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

命を終る

 改まって人の前で話をして、最後に「これで私の話を」と言った場合、そのあとを普通は何と続けるであろうか。「終ります」と言うであろうか。それとも「終えます」と言うであろうか。多くの人は「これで私の話を終ります」と言うのではないか。しかし考えてみれば「話を終る」はへんである。「終る」は自動詞であるから、本来「を終る」と言うべきではない。「話を終える」と他動詞の「終える」を使うべきではないか。しかし実際には「話を終えます」とはあまり言わないようだ。

 さて歌言葉のほうへ話を変えると、茂吉の「寒雲」に
  人麿がつひのいのちををはりたる鴨山をしもここと定めむ

と言う一首がある。島根県の湯抱で詠んだ歌で歌碑にもなっている有名な歌である。この歌の「いのちををはりたる」も「いのちををへたる」と言うほうが語法にかなうように思う。「をはりたる」と言うなら、上を「人麿のつひのいのちのをはりたる」とでもすべきところなのではあるまいか。

 もっともそれは、あえて理を立てて言ったまでのことである。口語で「話を終る」と言ってあやしまない言葉感覚であるならば「命を終る」式の表現をしても、異を立てるにも及ばないと言うことにもなる。茂吉の「あらたま」には「いそがしく夜の廻診ををはり来て狂人もりは蚊帳を吊るなり」「あわただしく夜の廻診ををはり来て独り嚔「はなひ」るも寂しくおもふ」という歌があり、この「廻診ををはり来て」が、「命を終る」式の言い方なのである。まだほかにも同様の例はあるが略す。そしてこの言い方は勿論茂吉ばかりではない。

 日本語の自動詞と他動詞は、その区別が比較的はっきりしていると言われるが、日常語でも古典でも必ずしもそうとも言えない場合がある。他動詞を使うべきところに自動詞を使ういい例としては、「出づ」がある。茂吉の「ともしび」より引く。

  チロールの山のはざまをみちびきしをとめのことを思ひいでつも

 この「思ひいでつも」は、「思ひ出しつも」と言っていいところである。「堀割のほとりを来つつたちまちに岩野泡鳴をおもひいだせり」(石泉)は、他動詞を使っている。しかし「岩野泡鳴をおもひいでつも」としても通るのである。古事記の「本辺は君を思ひ出末辺は妹を思ひ出・・・という歌謡を見ると、他動詞の代りに自動詞を使うのは、古代から始まっている。「思ひ出」は「思ひいで」を略した形である。万葉の「言に出でて言はばゆゆしみ」(二四三二)なども「言に出だして」と言わずに「言に出でて」と自動詞を使っている。

 先にあげた茂吉の「つひのいのちををはりたる」も、他動詞の代りに自動詞を使ったとも言えるが、多少の違和感は残る。


           筆者:「新アララギ」代表、編集委員、選者


寸言


掲示板投稿作選歌後記

 この新アララギHP掲示板へ投稿してくれる人は若い方が圧倒的に多い。今新アララギだけではなく、歌壇人口の高齢化を嘆く人が多いが、そんな時に一筋の光りをここに見る事が出来る。実は若者は歌の楽しさ、深さ、その良さを知らないだけで、吾々はその若者に向って門戸を開く手段を真剣に考えているだろうか。

 この選歌を通じて若者の真剣さに打たれた。私自身忘れていた大切な物を再び思い出させて呉れた。その意味からも私はこの投稿者の皆さんに深く、今低頭している。

 やさしい言葉で熱い心を語る。こんな事を忘れてはいけないと思った。詠むべき対象をじっと見詰めていると、その対象が何が大切か教えてくれる。ある意味では対象からの授かりを受けるのかも知れない。それは自分の心の中にあるものを実は探っている事でもあろう。見る瞬間に対象の核心を把握する修練そのものであろう。そんな事を思った。


                      大井力(新アララギ編集委員)


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