短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

いづく行くらむ

 我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ(四三)
万葉集巻一の有名な一首。この歌に「らむ」が二つ出てくる。この「らむ」はアリと助動詞のムの結合したものと言われ現在に関する推量を表わす助動詞だとされる。即ち「いづく行くらむ」は、「今頃どの辺を歩いているだろうか」という意であり、「今日か越ゆらむ」は、「今日あたり越えていることだろうか」という意になる。「憶良らは今はまからむ子泣くらむその彼の母も吾を待つらむぞ」(三三七)という歌も、「子泣くらむ」「吾を待つらむぞ」は「子は泣かむ」「吾を待たむぞ」などとは少し差があって「子泣くらむ」は「今頃は子が泣いているだろう」と今を強く意識して推量するのである。
 しかしこの「らむ」は、現在推量にだけ使われるのではない。万葉集のなかでも例えば「あさもよし紀人ともしも真土山行き来(く)と見らむ紀人ともしも」(五五)の「見らむ」は「いつも見るだろう」ぐらいの意である。広辞苑には「時を超越した一般的事実の推量を表わす」場合として「雪こそは春日消ゆらめ心さへ消え失せたれや言も通はぬ」(一七八ニ)と古今集の「世を捨てて山に入る人山にてもなほうき時はいづち行くらむ」を挙げる。「このいづち行くらむ」は、万葉の「いづく行くらむ」とは違ってたしかに時を超越している。例はもう挙げないが、古今集以後の「らむ」は、現在という時の規範から脱け出て、単なる推量の助動詞として用いられる場合が多くなったと見てよい。
 さてここで近代以後の歌のほうに移ることとする。
  小夜ふけてあいろもわかず悶ゆれば明日は疲れてまた眠るらむ
長塚節の「鍼の如く」の一首。「明日は疲れてまた眠るらむ」の「らむ」は現在推量ではないから、この「眠るらむ」は誤用だと言った人がいるけれども、それはあまりに杓子定規にすぎる。ここは「眠りなむ」などと言わなくてもよく、「らむ」を未来の推量に使ったのである。なお二首を引く。
  円柱の下ゆく僧侶まだ若くこれより先きいろいろの事があるらむ 茂吉「つきかげ」
  亡き人の姿幼等に語らむに聞き分くるまで吾あるらむか     文明「青南後集」
右の二首も「あるらむ」を「あらむ」式に、いわば未来推量の形に使っている。近代現代の歌は、こういう用法が多いと思う。それはもう咎め立てすることではないのである。
                              -(昭和63・3)
 
           筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者


寸言


掲示板投稿作選歌後記

 五月に担当してこの九月、二度目の担当でした。私の旅行があったりして上旬は何もできず相済まないことでした。

 私の学生のころ、短歌を作る友人は10人くらいいたのが卒業とともにほとんど止めてしまった。その中で私一人が学生時代から今日まで歌を続けたのはなぜか。考えたことはないが今思うと学生時代にアララギの会員になって歌会に出席し、しかも東京から来られた土屋文明先生の指導を歌会でじかに受けた体験が他の学生とは違う点であったと思う。先生の作品はそれまで読んでいたが実際に目前でその声を聞き、その人柄に接し、とりわけ批評のことばにでる文学観人生観に触れる感激は大きいものであった。パソコンのHPというかすかな接触をしつつ私は土屋先生との邂逅のことを回想している。

                       小谷 稔(新アララギ選者)


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