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仮名遣のこと(3)
今月も仮名遣について書く。戦後、現代仮名遣、いわゆる新かなが制定された時は、私も大いに反感を抱いたものだ。せっかく覚えた歴史的仮名遣をむざむざ捨ててなるものかと思った。そのうち慣れてしまうと、文章の仮名遣などは新かなでも抵抗がなくなった。柴生田稔氏の歌集「麦の庭」に「新仮名遣にもすでに表情出で来つと思ひてゐたり耳冷やしつつ」というのがあり、これは昭和二十六年作である。茂吉門下の柴生田氏が新かなに柔軟な態度を取るのが当時の私には印象深かった。
しかし心情的には私は旧かな派だ。千二百年前の日本語の音韻に今でも支配されなければならぬといううしろめたさはあるものの、一方旧かなが日本の本来の姿であるという認識は変らない。少くとも短歌表記はそれに従うべきだと考える。広辞苑の新村出の「自序」は、まことに巧妙な文章で、新かなでも旧かなでもない。新かな式は「あった」というような促音を小さく組んだ箇所だけのようだ。これは随分苦労して書いたものと思う。新村という人も、本来は新かなにくみ与することができなかったのであろう。だが、旧かなにも頼りない面もあるのである。
前に触れた契沖の「和字正濫鈔」を見ると、一語ずつ仮名遣に問題のある語をあげて、仮名の判定をしているのだが、あちこちに「未考」というのがあって驚く。例えば、「泳 をよぐ 未考得」とあり次に「及 をよび 此仮名未考」とある。「泳ぐ」も「及び」も一応「をー」とするが、「を・お」のどちらが正しいか分らないと言うのである。これは当時古い資料に適切な用例が見当らなかったからだ。しかし後の楫取魚彦(賀茂真淵門人)の「古言梯」では「およぎ」「および」として「お」と定めたのは、新撰字鏡(古今集が出た頃の辞書)等によったのである。私どもは、仮名遣を忘れると辞書を引いて、そこに示されている表記を無条件に正しいものと鵜呑みにしてしまうが、実は一語一語の仮名遣がそこに定着するまでに、さまざまな経路を経ているのも、案外少なくはない。「或るいは」という語は、「正濫鈔」も「古言梯」も「あるひは」であるが、今は「あるいは」が正しいとされる。「うづくまる」「うずくまる」もよく問題になる仮名で、前二書は「うづくまる」だが、今は「うずくまる」が正しいことになってしまった。「机」は広辞苑の初版では「つくゑ」だが、三版では「平安初期にツクエの例があり、ヤ行のエが古形と認められる」として「つくえ」になった。机即ちつき坏すゑ据という語源説による仮名遣は崩れてしまったのだ。茂吉の「わが心に何のはずみにかあらむ・・・」という歌の「はずみ」も、今は「はづみ」と書くほうがいい。古い資料の発見、あるいは操作のしかたによって仮名遣が動くのだ。新かなにはこういう問題はまずない。
(昭和63・9〜63・11)
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
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寸言 |
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きらびやかな言葉と内容
誰かが葛原さんの歌を読むと、あまりの言葉の美しさに自分の貧しさが思われて歌えなくなってしまう、と書いていました。
詩人は言葉のもつニュアンスに敏感でなければなりません。例えば、これも今回出てきた言葉ですが、「腹をくくる」「腹を据える」「決意する」、この三つは大体同じ意味です。しかしそのもたらす響きは随分ちがいます。私が歌にとり込む言葉は、よほど特殊な場合を除いて、普通の「決意する」でしょう。それは、ある言葉の持つニュアンスが、私の訴えたい「決意」の内容に関わってこないことを願うからです。
言葉を沢山知り、理解し、縦横に使えるようになることは勿論必要ですが、言葉だけで歌を作る訳ではありません。「新アララギ」では、博士の歌よりも市井の主婦の歌の方が立派な場合が多いくらいです。きらびやかな言葉に圧倒される必要はないと思います。
倉林 美千子
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