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居れり・死にぬ
佐藤佐太郎氏の「童馬山房随聞」に次のような記事がある。
先生は、山口氏の歌集の原稿をざっと見ながら「(居れり)というのはまちがいだよ。僕も使っているが、悪口をいわれても爆撃ができるか、それだけの用意がなければ使わない方がいい。(死にぬ)というのも無いな。僕の(赤光)には(死にぬらむ)というのがあるが、承知してやっている。音調がいいもんだからね。こういうのはアララギの選歌にあったら直してくれたまえ」といわれた。(昭和16年6月29日の項)
つまり「居れり」「死にぬ」という言い方は誤りだから、無自覚的に使うのはいけないと、戒めている。それでは「居(を)れり」「死にぬ」がなぜ誤りになるのか。要するに古典に用例がないからだ。なぜないかと言えば、「居り」は「ヰアリ」の転だと言われるように本質的に「あり」を含んでいる。「り」という完了の助動詞は「あり」から発生したものである。それで「居れり」という「あり」を二重に使う言い方はしないということだろう。「あれり」も同様である。
また「ぬ」という完了の助動詞は「往(い)ぬ」という動詞から出て来た。「往にぬ」という連続した形は「女の婦人」式であるから言わない。「往ぬ」と「死ぬ」は、ともにナ行変格の動詞であるから「死にぬ」も言わないことになったものか。とにかく古典に用例のないものはまちがいとされるのである。
「居れり」の茂吉の例は「やまみづのたぎつ峡間(はざま)に光さし大き石ただにむらがり居れり」(あらたま)その他がある。この「むらがり居れり」につき土屋文明先生は『居れり』という語法は標準文語文法では違法ということになっているが、吾々の使う文法は、そんなことはかまわないのだ。」(「斎藤茂吉短歌合評」)と明快である。茂吉、文明の間に考え方の多少の差がある。「居れり」の用例を捜すのはむずかしくない。中村憲吉の「山川の日ぐれの岩にひとり居れり川魚の飛びの暗くなるまで」(しがらみ)もその一つだ。近ごろ石田比呂志歌集「滴滴」を見たら沢山出て来る。「石田比呂志という人間の臍の穴覗きておれるとき涙落つ」というように。文明式に「そんなことかまわない」と自覚して使っているかどうかは知るところならず。
「死にぬらむ」については、茂吉は与謝野寛から、従来の文法的にはまちがいだが、新しい歌ではかまわぬだろうと教えられたと寛の追悼文に書いている。「赤光」には「死にぬらむ」の例はないようだ。ただ初版「赤光」には「うつしみは死にぬ此(かく)のごと吾(あ)は生きて」という歌があり、「死にぬ」を改選で「死しぬ」と変えたのは、文法的配慮によるものと思われる。新しいところでは岡井隆氏に「やうやくにまなかひ暗くなりゆきて死にたる人は真直(ますぐ)に死にぬ」(「禁忌と好色」)がある。(昭和61・9)
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
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寸言 |
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掲示板投稿作選歌後記
新アララギのHP開設の頃にくらべると作品のレベルは格段に上がった。参加者も老若男女と多彩で、或る年齢層や詠風がひと色に染まっていない点も印象的である。長閑さんや他の人もそうだが、どこへ出しても恥ずかしくない完成度の高い作品が集まっているのが、目を引く。この勢いを新しい年につなげてもらいたい。
2003年12月25日 選者 雁部 貞夫
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