短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

きみはほほゑむ
 
 会津八一の「鹿鳴集」の、法隆寺夢殿の救世観音を詠んだ次の一首は、よく知られている。

   あめつちにわれひとりゐてたつごときこのさびしさをきみはほほゑむ

 名歌と言いたいが、「さびしさを、ほほゑむ」というつなげ方に、いくらかこなれないところがある。それよりも気になるのは「きみ」という代名詞の使い方である。「君」という語は古代語から現代語まで随分複雑に変化しているけれども、信仰の対象である仏像に対して、いくら親愛の気持をこめたからと言っても「きみ」と言うのには抵抗を感ずる。英語では神に対しても国王に対しても、youと言うのであろうから、それと同様の言い方だと考えていいかもしれないが、とにかくこの「きみ」が致命傷になるのではあるまいか。

 こういう「きみ」の例は、ほかにはあるまいと漠然と考えていた。ところが、鎌倉時代の明恵上人に次の歌があることを最近知った。岩波日本思想大系「鎌倉旧仏教」の解説によると、

   モロトモ二アハレトヲボセ、ワ仏ヨ、キミヨリホカニシル人モナシ

という歌を、上人が本尊とした仏眼仏母尊(ぶつげんぶつもそん)像の隅に書き入れたと言う。紀州の白上峰で修行中の二十代の時で、この歌のあとに「無耳法師之母御前也云々」とある由である。(明恵は求道の志を確かめるため、片耳を切って無耳法師と名のった。)母御前として慕う仏眼仏母尊を、歌では「ワ仏ヨ」としたしんで呼びかけている。こういう時に使うとすれば「キミよりほかの代名詞なし」ということになるのかも知れない。ちなみにこの明恵の一首は、金葉集所載の百人一首にも取られた「もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし」(行尊大僧正)がそのまま乗り移っていることは明白である。先の会津八一の「きみはほほゑむ」も、この明恵の歌を知っていくらか違和感が薄らぐような気もしないではない。

 連想は飛ぶが、今の言葉で言えば、日中戦争と言うのか、その戦事中の愛国歌「父よあなたは強かった」は、当時から父をあなたとは何事ぞやという議論があったようだ。これは仏像に向かって君と呼びかけるのと似通った要素がある。なおついでに言えば、与謝野晶子の有名な「君死にたまふことなかれ」という詩は、「ああ弟よ君を泣く、君死にたまふことなかれ」という一行から始まるように、日露戦争出征中の弟へ呼びかけた詩であるが、弟を君と言うのは一向に差支えないけれど「死にたまふことなかれ」と敬語を使うのはいかがなものであろうか。兄や恋人でなく弟に対して言うところに、日本語として何かなじめないものを感ずるのである。(昭和61.11)

           筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者


寸言


掲示板投稿作選歌後記

 本当の新しさとは

 歌を作るということは生きることそのものであるが、そのなかで何が本当の新しさか考えるに、いかに純なものを心に保ち得るかで決まるものだと思う。技法とか素材の新しさよりもっと大事なことはこの一点だと思う。今までにない新しい内在する心とは結局こころを深くすることにより、手がかりが掴める。

        平成16年2月25日  大井 力(新アララギ編集委員)


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