短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

イテフとイチヤウ
 
 中央公論社発行の「日本の詩歌6」は、赤彦以下五人のアララギ歌人の歌を選出して載せている。その中の岡麓の作品に歌集「朝雲」(昭11)にある次の一首が出ている。

 銀杏(いちやう)の木鈴生(すずなり)に実の生(な)れる木と実の生らぬ木と二木(ふたき)揃へり

 これを読んでオヤッ? と思ったのは、歌そのもののためではない。初句の「いちやう」というルビに注意したのであった。 これは昭和八年作で、岡麓はその年に早くも「いちやう」という仮名遣を使用したのかと一瞬あやしく思ったからだ。それでじかに歌集を当ってみると、何のことはない。その歌にルビはないのである。つまり作者は、銀杏はイテフでなく、イチヤウが正しいなどと主張をしているわけではない。編集者が勝手にルビをつけたのであった。これはよくないと思う。なぜこんなことを言うかと言えば斎藤茂吉歌集「暁紅」(昭15)の昭和十年の「新冬小吟」中に「わが庭の一木の公孫樹(イテフ)残りなく落葉しせれば心やすけし」とあり、そのあとの「晩秋より歳晩」には「あらしのかぜ一夜ふきしきわがいへの公孫樹(いちやう)の樹には一葉だになし」「黄ににほひし公孫樹(いちやう)もみぢもことごとく落葉ししまへば心しづまるか」というのがある(引用に当って他の漢字のルビは消した)。つまり茂吉は昭和十年のイチョウが散る頃に、イテフからイチヤウに仮名遣を変更したのだ。岡麓がその前に変更してもかまわないが、そんなことはまずあり得ないだろうと考えたのである。「朝雲」のなかで銀杏にルビを付しているところは、みなイテフである。

 さて茂吉という歌人は、過程を尊重する人である。「白桃」という歌集は年代は「暁紅」のすぐ前であるが、発行は「暁紅」より二年おくれた。だから訂正もできるのに、昭和九年作に「銀杏葉(いてふば)」「公孫樹(いてふ)」という表記を残している。それどころか、昭和十年の製作時期が接近している時にも、イテフが正しいと信じていた時は「わが庭の一木の公孫樹(いてふ)」と書き、そのあとイチヤウ説に移っても、前の表記は否定せず温存するのである。茂吉全集では、この昭和十年の歌のなかで仮名遣が不統一なのはよくないと編集者が考えたのか、それとも歌集発行後の茂吉の考えに基づくのか「わが庭に一木の公孫樹(いちやう)」として統一してしまった。だから全集では昭和九年までイテフ、十年以降はイチヤウである。

 なぜ茂吉は銀杏・公孫樹の仮名遣を昭和十年の途中で変えたのか。江戸時代にイテフと書いたのは、語源を一葉(イチエフ)と考えたためだと言う。昭和七年に出た大言海の第一巻はそれを否定して、銀杏は支那より渡来のもので、それを鴨脚ともいうが、その宋音イチヤウによってイチヤウと書くのが正しいと説いた。その大言海の説に従ったのである(もっとも受け入れるまでに三年かかった)。歴史的仮名遣といえども動くといういい一例である。(昭和62・1)

           筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者


寸言


掲示板投稿作選歌後記

 時期がやや遅いのですが、先人の歌に土屋文明の早春の歌を選びました。終戦後、群馬の疎開地ではじめて迎えた春です。戦争の時期には、こんなすがすがしい春の歌はありませんでした。迎えた春の喜びには戦争からの開放感がかさなっているようです。


                      小谷 稔(新アララギ選者)


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