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乙女(2)
前に「乙女」という文字遣について書いた。一回分だけにするつもりだったが、も少し書きたいことがあるので追記する。
ヲとオの混合は、はっきり言えばヲの音がオに吸収される時期は、実は十世紀の終りの頃より始まると言う。すると紫式部の生きていた頃である。源氏物語の五十四帖のなかに「をとめ」という巻名の巻がある。これを「乙女」と印刷する本が目につくが、紫式部の時代にヲとオの混合が既に始まっていたにせよ彼女が乙女と書いたわけではあるまい。平安時代の末(十二世紀末近く)に成立した色葉字類抄という辞書を見ても「少女、ヲトメ」としてあって、まだ「乙女」の文字は見られない。日本の古辞書についてはよく知らないが、「乙女」の文字が出て来るのは、室町時代の節用集あたりが初めなのではあるまいか。
百人一首のなかにある僧正遍昭の「をとめの姿しばしとどめむ」の歌も「乙女の姿」と、書かれる場合が多いが、古今集の一首だから本来は「乙女」と記すべきではないだろう。そういうことにいちいち目くじらを立ててもしようがないけれども。
一九七頁で、アララギでは「乙女」を排撃すると書いたが、それは何もアララギだけではない。明治の落合直文は、国語学者でもあったから、その歌を見ると「をとめご少女子が扇の風や弱からし二たび立ちて飛ぶ蛍かな」「をとめらが泳ぎしあとの遠浅に浮環のごとき月浮かび出でぬ」「をとめ子は摘みて砕きて棄てにけり薔薇の花には罪もあらなくに」というふうに、「乙女」を避けて書いている。これが明星派の歌人にも伝わったのか、与謝野晶子は「みだれ髪」の「髪五尺ときなば水にやはらかきをとめ少女ごころは秘めて放たじ」以下、ずっと「乙女」は使わず「少女」または「をとめ」と書いていたようだ。
そしてアララギの歌人でも中村憲吉は、「林泉集」のなかで、「かはたれを我れに来向かふわが乙女ややあか赤面みゐて憎からなくに」などと「乙女」も使ったことがある。この歌人は用語や文字にさほど神経質ではなかったのである。この「わが乙女」と同年(大2)の作で歌集は「馬鈴薯の花」に属するが「たちばな橘花のいまだふふ莟めるわがをとめ少女にかすかなる香を聞くうれひなり」というのもある。あるいは年の頃によって「少女」と「乙女」とを使い分けてみたのかもしれない。
土屋文明「読売歌壇秀作選」には「胸にすむ君は乙女のままなるにうつそみかなし吾は老いたり」「乙女の日妻となりし日は短くて独りの日長く歌よみつづける」というような歌が取られている。選者は、もう世間通用の文字としてここでは「乙女」も認めていると見ていいのであろう。新仮名の時代には、あえて疎んずる必要もないというべきか。「乙女椿」「乙女座」「乙女の祈り」ともなれば、仮名書きはかえって不自然だともいえようか。
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者 |
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