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或る意見に(1)
本年一月の現代歌人協会の理事会の席上に、信州上田の佐藤夏実という人の協会あての書簡のコピーが配布された。その前文を一部省略して引くと「さて私こと、歌を詠む者ではありませんが去る十月八日の全国大会に興味の赴くままに出席し、勉強させて頂きました。そこで強く感じたことは、現代の短歌では短歌の世界でしか通用しない慣用語が出来てしまっていること、選者は自分の好みや興の向くまま選歌をするので、言葉や歌の内容について深い考察がされていないことです。」云々。そして昭和六十三年の第十七回大会選歌集から具体例を引いて「門外漢の意見」としていろいろ述べている。佐藤夏実という人については全く知らないが、言葉に強い関心を持つ人には違いないだろう。その意見には賛成できる部分と、できない部分がある。そこで協会を代表するのでなく、あくまで個人的な立場で、この場所を借りて私の考えを述べてみたい。提起された問題は適当に整理して記すこととする。言葉の問題でない内容上の問題には触れない。
まず筆者は、「現代的な語のなかに字数あわせのための古語がまじる」として「という」の意 味の「とう」の乱発(「女友達とう汚名着る」「JRとふ呼名疎めど」など)や「が如くに」の意味の「がに」(「故郷へ戻りゆくがに」)、それから「しきりに降る」の「しきふる」(「音するごとく黄砂しきふる」)を挙げる。「とふ」(「とう」)は、たしかに古語であるが、「といふ」(「という」)と言わずに古語を使うのは、単に字数あわせと見ているのだ。その感覚はやはり歌を詠まない人の感覚と言わざるを得ない。「とふ」を使うか「といふ」を使うか、一首の声調が決めることであって、単なる字数で決めることではない。
しかし「といふ」ではまのびがするから、「とふ」として字数に合わせる形にすることも勿論ある。「黄砂しきりにふる」では具合悪いから「黄砂しきふる」とする。すると「しきふる」という古語が現代語のなかに飛び出して来る。それが「短歌の世界でしか通用しない慣用語が出来てしまって」ということになろう。しかしそれは一向にかまわないことではないか。
我々の歌言葉のなかには、それこそ千二百年前の古語も生きている。「がに」などという語は、古今集以後あまり使われなかった助詞であろう。私は好きでないから使用しないが、人が使うのに文句は言わない。「こほし」は、現代短歌のなかに大手を振って闊歩しているが、これは万葉時代でも家持の時代にはもう使われなくなっていた言葉だ。現代短歌のなかに使われる古語は、慣れないと奇妙に見えるかも知れないが、古語にして古語ではない。勿論その使用には現代短歌のなかに調和する場合に限る。無反省に使っていいものではない。
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者 |
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