短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

 或る意見に(2)

 それから佐藤夏実氏は、「雪の降り頻く」という言い方は文法無視だとする。「この場合『ふりしく』は、か行四段活用だから『降り敷く』と解される。『雪降り頻る』なら良い。」と言うのは、わけが分らない。「降り頻く」のどこが文法無視か。フリシクはシキフルと同じ意味で、万葉の家持の歌にも「ひさかたの雨は降り頻く」(一○四○)とあるではないか。何も「雪降り頻る」と言い換える必要はないのである。

 この人のもう一つの失考とも言うべきは、佐佐木幸綱選に出てくる「さばえなす騒ぐ生徒に」に対して、「さばえなす」は古事記に出てくる言葉で「うるさい」を、「五月蝿い」と宛てるもととなった言葉であるが、「いろいろな悪さをする邪神」のことを表現するのにほぼ限定されている。奇を衒い過ぎて言葉の意味を崩すのは疑問である。と批判した点である。これは一知半解と言うべきか。評者はなぜ万葉に「さばへなす騒ぐ舎人(とねり)は」(四七八)、「さばへなす騒ぐ子どもを」(八九七)の用例のあるのを思い浮かべないのか。「さばえなす騒ぐ生徒に」は、何も奇を衒う表現ではない。言葉の意味を崩すと言うならば、万葉時代にそれは始まっているのだ。

 なお「夫」について「最近の短歌の場合殆どツマと読ませており、選者も歌を読み上げる時はまずツマと読むように見受けられるが、字数あわせよりも高い次元でツマと読む必然性が出ないものだろうか。」と指摘するが「字数あわせよりも高い次元で」というのが、私にはよく分らない。「夫」をツマと読むのを嫌う歌人(例えば片山貞美氏の如き)もいるが、これは歌語としてすでに定着しているとみるべきであろう。

 私が同感できるのは「凝った漢字を書き、ルビで字数を合わせる」ことへの批判である。「字数をあわせる」という言い方は好まないが、機関車を「かま」、肉声を「こえ」と読ませるのは如何であろうかと言う。「耳で聞くと共に用字も鑑賞するのが短歌だ、というのも一つの見解であろうが。」と若干の理解も示されているが。

 最後に次の一首について論じている。

 夕暮れの港を硝子越しに見て閲覧室を学生は出ず

 これは馬場あき子選の選者賞、篠弘選の佳作に選ばれた歌であった。馬場、篠氏とも結句は「出た」と解したのに対し、ここは作者がどう考えようと、文字に書かれたこの歌では「学生は出なかった」と解されて異議はないはずであると論じるのは、少し強引である。否定形ならば「出でず」と書くべきである。しかし新仮名の「出ず」は、確かにまぎらわしい。ここだけは「出づ」と書くか「出(い)ず」とするか、工夫があるべきだ。しかしこの歌、それとは別の根本的な疑問もあるが、それには触れないでおく。
                  (平成1・3,1・4)



         筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者


バックナンバー