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桜の花・桜花
戦後のアララギで長く「万葉集短歌研究」「万葉集合評」というのを連載した。五味保義、柴生田稔氏が中心だが、私なども主な発言メンバーのなかに加えてもらった。或る時その原稿を作るため、明治大学の柴生田氏の研究室に常連が集まり、私は口述されるのを筆記していた。そしてカミノクと言われるのを、「上句」と書いたら、五味氏曰く「これからは『上の句』『下の句』と『の』を書き入れてくれたまえ。ジョウクと言ったり、カミクと言ったり、カク、ゲクなどと言う者が多いから、『の』をはっきり書くことにしようと、柴生田君と相談して決めた。」と。それから私も常に「上の句」「下の句」と書くこととしたのである。きちんと統一は取れていないだろうが、明治書院発行の「斎藤茂吉短歌合評」も、アララギ連載中の途中からなるべく「の」を入れるようにしたので、明大における申し合わせを生かそうとした。ところがこういうことは徹底するものではない。合評類の文章は評者によって同じ場所同じページで「上句」「上の句」が入り乱れる。最近は私どもも、もう「の」を入れるのを止めてしまった。
柿本人麿・紀貫之・藤原定家などは言うまでもなく「柿本の人麿」というように「の」を入れて読む。のを入れないのは源平以後の北条氏からだと、昔歴史の先生に聞いた。なるほど「徳川の家康」とは言わない。武田祐吉の「万葉集全註釈」では常に「大伴の家持」という方式の表記で統一していたのは、「上の句」と書くのと同様で、「の」を落として読まれるのを警戒したためであったか。(しかし文字と発音との関係は微妙である。今でも姓の井上、木下などは「の」を書かない。)
さて以上のことを話の枕としたいが、うまくつながるか。江戸時代の誰かの句に「秋風の音よりさびし秋の風」というのがある由、何かの本で読んだことがあり、うろ覚えであるが、「秋風」と「秋の風」の違いが論ぜられていたと思う。「秋風」よりなぜ「秋の風」が寂しいのか、ただ詭弁を弄しているにすぎないようだ。「秋風の吹く」「秋の風吹く」の意味に相違はない。どちらにするかは一首全体の声調のなかで決めることである。
今年より春知りそむる桜花散るといふことは習はざらなむ
古今集の貫之の歌。詞書には「人の家に植ゑたりける桜の花("桜の花"の部分に○印)咲きはじめたりけるを見てよめる」とある。歌は「桜花」であるが詞書は「桜の花」である。注意すると古今集のほかの歌と詞書も皆そうなっている。古今集以下も、おおむねそういう関係だ。つまり「桜花」は歌言葉なのである。「梅の花」はどうか。これは歌も詞書も変らない。つまりウメバナとは言わない。小暮政次氏の次の一首(アララギ昭60・4)は、バイカと読むのだろう。
明るき静かなる枯芝を踏みてのぼり感じ新鮮に梅花に対す
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者 |
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