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死ぬる・死ぬ
明治三十八年に文部省が官報で告示したものに「文法上許容スベキ事項」というのがある。これは文語文で破格とされて来たもののうち十六か条を慣用として許容したもので、その第一には「居リ」「恨ム」「死ヌ」ヲ四段活用ノ動詞トシテ用ヰルモ妨ナシ、とある。今は「死ヌ」という動詞だけを問題にしたい。
生ける者つひにも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな
万葉集巻三(三四九) 大伴 旅人
旅人の有名な讃酒歌の一首。私どもは文語文法にナ行変格活用略してナ変という活用形式があり、それに「死ぬ」「住(い)ぬ」という二つの動詞が属していると教わって来た。「往ぬ」は今は殆ど使われないので無視して「死ぬ」の六つの活用を記すと、
死ナ・死ニ・死ヌ・死ヌル・死ヌレ・死ネ
となる。右の歌の「死ぬるもの」は、即ちこの連体形である。已然形は「死ぬれば」という形になる。しかし明治の許容に従えば四段活用を取って「死ぬもの」「死ねば」でもいいということになる。
「死ぬ」は、ナ変の活用が正格なのにそれが四段に移る徴候は鎌倉時代からだと言う。室町時代から江戸時代にかけては散文乃至口語では、連体形の「死ぬる」と「死ぬ」の両方が平行して使われていたようだ。「死ぬる子は眉目よし」「死ぬ者貧乏」というようなことわざ的な言葉が江戸の人情本等に見える。「死ぬ者が損とは後家へあてこすり」は、柳多留の一句である。
やがて死ぬけしきは見えず蝉の声 芭 蕉
芭蕉も明治の許容案の先鞭をつけた形だ。歌人は保守的だから江戸時代の歌人も多くは「死ぬる」を使ったであろう。幕末の歌人橘曙覧に「死ぬるやまひ薬のまじと思へるをうるさく人のくすり飲めといふ」などがある。
今の口語にも「死ぬる」がないことはない。いつか九州の人から「死ぬる奴は」などと言うのを聞いたことがある。鴎外の小説などには「死ぬる」がよく出て来る。例えば「堺事件」に「今死なずにしまったら、もう死ぬることは出来まいと」などと。
さて土屋文明歌集から両方の例を出しておく。先にナ変を引く。
父死ぬる家にはらから集まりておそ午時(ひるどき)に塩鮭を焼く
善き生徒多くありけり越度(をちど)ある汝(いまし)はわれをたよりき死ぬるまで
山の上に吾に十坪の新墾(あらき)あり蕪まきて食はむ饑ゑ死ぬる前に
以上は「往還集」「少安集」「山下水」より。
争ひて有り経し妻よ吾よりはいくらか先に死ぬこともあらむ
説を更へ地位を保たむ苦しみは君知らざらむ助手にて死ねば
馬の死ぬ時の姿に夜々臥して幼き夢に馬の死ぬにあふ
「山谷集」「少安集」「続青南集」より。一首の声調を考慮してナ変と四段とを使い分けていると思われる。尤も「馬の死ぬ時」は「馬死ぬる時」としても一向差支えはない。
(平成3・4)
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
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