短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

 追ひ及けず

 本日私が出た或る短歌教室で「五分ともかからぬポストまでの道一息二息つかねば行けず」という歌があった。これから記念出版会に出席しようと思う島田美佐子さんの歌集「明日葉ノート」を見ると「散る花の頬に冷たく証すこといまだ残れる母は死ねざり」「言へざるは言へざるままに病室よりみやる芒穂西日を返す」というような歌が目についた。つまり「行けず」「死ねざり」「言へざる」のような言い方は「行かず」「死なざり」「言はざる」というのと違って、・・・することが出来ないという意味で可能動詞を使っているのである。これについてはこの「雑記」でも書いたのであるが、もう一度書いてみたくなった。それは、
  
  早口にものを言ふ世に追ひ及(し)けず何をなすべき家にこもりて

という安達竜雄氏の一首をアララギの本年五月号に見つけたからである。「追ひ及けず」は、「追ひ及かず」ではないのだから、「及(し)く」という四段の動詞を可能動詞風にして、追いつくことができないという意味に使ったものと判断される。「「及く」は「追いつく」という意味であり、万葉集に「遅れゐて恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈みに標(しめ)結へわが背」(二・一一五)などと使われ、古事記にも「山代にい及(し)け鳥山(とりやま)い及けい及け」とあり、土屋文明「ふゆくさ」の「秋ざるる夕べなれや人の影こひしこひしき人に追ひ及かむかも」は、万葉集の一句を利用している。この「及く」は「如く」や「若く」とも書き、「百聞は一見に及かず」「子を見ること親に及かず」というように、下に打消を伴う形だけが後世に残った。とにかく本来は古語であるのに、「及けず」と可能動詞的に使うのは、いささか乱暴な用法であり、私は抵抗を感ずる。

 この可能動詞の用法は小林好日の「日本文法史」によると、室町時代から往々その例があるとして、「三字ガヨメヌゾ」という「桃源抄」の例を引き、江戸時代に一般の慣習となり今日に及んだと簡単に記されている。江戸時代には口語としては、もう一般的だったようだ。「誹風末摘花」は、私のひそかなる愛読書であるが、そのなかの「かかが口延ビあがらねば吸へぬ也」という一句などは「吸へぬ」と可能動詞を使っている。これは背伸びしないと女房とキッスできないという蚤の夫婦を笑ったもの。しかし擬古文や和歌の文語のなかでは、殆ど使われなかったのではあるまいか。一茶の俳句に、

  雪ちるやおどけも言へぬ信濃空

などというのがあるが、これは口語風の言葉をどしどし取り入れた一茶であるから「言へぬ」と言えたのであろう。とにかく現代短歌では可能動詞の使用は、もう一般的になった。しかしそれを古語にまで及ぼすのはいかがかと思う。前に「飛び立てなくに」の例を紹介したが、それは、「追ひ及けず」ほど不自然ではない。                   
                           (平成3・7)


         筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者


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