短歌雑記帳

「歌言葉考言学」抄


 昨夜(きぞ)、昨夜(きぞ)の夜

 取り上げることは、いつも重箱の隅をほじくるようなことで気が咎めるがしかたない。

海底ゆ掬いとるがに昨(きぞ)の夜の水に沈める茶碗を洗う     石田 比呂志
昨夜(きぞ)一夜魘されゐしとぞ然(さ)うだろう心いよいよ俺にも分からず     島田 修三
昨日(きぞ)けふと何変るなし元朝の光は寝間のカーテンに透く     麻生 松江
昨夜(きぞ)食(を)ししむらさきの貝 わが掌よりひらり発ちたる青しじみ蝶     原田 汀子

 右の第一首は、昨年の「歌壇」十二月号より、後の三首は、「短歌」の平成六年版短歌年鑑より引く。「昨(きぞ)の夜」「昨夜(きぞ)」「昨日(きぞ)」という用語とその表記に注意したいのだ。

 キゾ、キゾノヨは、勿論古代語であって万葉集に七例見える。このキゾという言葉で思い出すことがある。戦後のアララギの東京歌会で或る日の出詠に「昨日(きぞ)」という表記を含む歌があった。その歌評の際私が土屋文明先生に「キゾというのは、昨日ではなくて、昨日の夜・昨夜という意味ではありませんか。万葉に『キゾもコヨヒも』とありますから」と問ひかけた。先生曰く「うんそうだな『キゾもコヨヒも』と言うからね」と肯定された。万葉のは「かほばなの恋ひてか寝(ぬ)らむキゾも今宵も」(三五〇五)「たちみだえ吾(わ)をか持つなもキゾも今宵も」(三五六三)そのほかに「キゾこそは子ろとさ寝しか」(三五二二)「いたぶらしもよキゾひとり寝て」(三五五〇)も、昨日の意ではなく昨夜の夜に重みがある。

 「ぬばたまのキゾは還しつ」(七八一)のキゾの原文は「昨夜」であるが、夜であればこそ「ぬばたまの」という枕詞も使い得ることになる。なお「吾が恋ふる君ぞキゾノヨ夢に見えつる」(一五〇)のキゾノヨにつき、岩波古語辞典に「キゾは昨夜。更に下に夜を重ねたのは『明日の日』と堂形式」と説く。つまりキゾノヨは、「女の婦人」式の言い方なので「今朝の朝明(あさけ)雁がね聞きつ」(一五一三)と同様のかさね言葉なのである。(左千夫の「今朝のあさの露ひやびやと秋草や総て幽けき寂滅(ほろび)の光」の初句は、こういうところからヒントを得たのだろう。)

 このキゾ乃至はキゾノヨという言葉は、古今集以後は、どうも歌語として使われず近代になって復活したのではないか。今はその代表として、茂吉の二首を引く。

昨(きぞ)の夜もねむり足(たら)はず戸をあけて霜の白きにおどろきにけり 『あらたま』
きぞの夜の一夜(ひとよ)あらびし雲はれて黒姫のやま妙高のやま   『たかはら』

 「きぞの夜の一夜」となると「夜」を三度くり返すことになるが、他の「昨日(ゾ)の夜にふぶきしものか」「きぞの朝友の行きたる」などの用例から推測すると茂吉はキゾ即昨夜とは考えていなかったようだ。明治の言海を見ると「きぞ(名)昨日(去年(コゾ)ト同意)昨日(キノフ)」などと出ている。去年(こぞ)と同意とはおかしいが、万葉の用例を厳密に検討せず昨夜の意が正しいとは気づいていない。だから近代歌人に「昨日」のつもりで使う例もすくなくないのは止むを得ないか。最近出た司代隆三編著の『短歌用語辞典』(新版)の「きぞ」の項では、昨日の意を先にあげ、次いで昨夜の意として例歌に「昨日(きぞ)ここに咲きゐし黄あめの花なくて今日鮮しき黄あやめのつぼみ」(河野裕子)をもあげている。古語辞典の類にも昨夜と共に昨日の意味も含めて説くのも多い。だから最初にあげた「昨(きぞ)けふと」「昨日(きぞ)食(を)しし」の「昨日(きぞ)」も誤りだと頭から斥けるわけにも行くまい。でも厳密には「昨夜」の意味であることは知るべきである。

立春は昨日(きぞ)あたたかき陽の縁に喪服を吊れば去年(こぞ)の香(かう)の香(か)
昨夜(きぞ)ながくかかりし手紙出しにゆく 黄葉(くわうえふ)を焚くところを過ぎて

 『上田三四二全歌集』より引く。この作者は、このように気ままに「昨日(きぞ)」「昨夜(きぞ)」を使い分けていたらしい。これは御都合主義だと言えなくもない。キゾのキは、キノフのキと勿論関わりはあるのだろうが。

 それにしてもキゾが昨夜で、コゾが去年。わずかな母音の差で意味が大きく変わる。日本語の非常に微妙な部分である。

 キゾのような千二百年も、歌語として使われなかった言葉が、あたかも古代の地層から発見された蓮の種が芽ぶいて開花するように近代になって復活する例は、少なくはない。前にも書いたが、「恋ほし」という形容詞は、万葉後期にはもう古くさい語として敬遠されたらしいのに、明治以後は現代まで堂々と横行闊歩している。極端な口語、俗語の傍らに始めに引く石田氏の「海底ゆ掬いとるがに」の「ゆ」「がに」という古代語も平気で顔を出すのである。まさに言葉の雑居ビルだ。「野(ぬ)」とか「現し身」とか、江戸時代の国学者の誤解によって誕生したという言葉が使われる例もかなりある。これについては後に触れたい。



         筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者



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