短歌雑記帳

「歌言葉考言学」抄


 「思ほへば」など

 この連載の文章のために読みあさっているうちに、次のような作品に出会った。

思ほへば硼酸液に眼を洗ふいにしへありき庭のみどり葉
                    永田 典子
春雷の真夜を覚めをり思おえば妻をいたわることなく久し
                    鈴木 諄三
夫亡くて何の桜と思ほえど今年の桜満ちて美しも
                    吉野 栄子
十方無辺なべて自由と思ほへど陽は西方に遁れゆくなり
                    吉野 栄子

 右の第三首までは、平成六年版の「短歌」の「短歌年鑑」に、あとの一首は「短歌新聞」平成六年一月号にいずれも自選作品として載ったものである。

 実は私の『歌言葉雑記』に「思ほえば」及び「思ほへば」と題して同じ内容のことを二度書いている。また繰り返すのもどうかと思うが、相変らず誤用がまかり通っているとも言えるようなので、またここに記してみることとした。

 右の第一首の「思ほへば」、それを新仮名にした形の第二首の「思おえば」は、いずれも「思えば」「思ってみれば」ぐらいの意味で使っているだろう。しかしそういう言い方が成立するには元来「思ほふ」というハ行に活用する動詞が存在しなければならないのに、そういう動詞は今も昔も日本語にはない。

 右の第三、四首は、同一の作者に違いないと思うが、「思ほえど」「思ほへど」と仮名が違うのは、一方が誤植か書き違いか、あるいはどちらかが、訂正した表記なのか、そこは分からない。

 教科書風の説明になるが、万葉集に数多く使われた動詞に思ホユという下二段活用の自動詞がある。思ハユが思ホユと転じ、更に後には覚(おぼ)ユとなった。「自然に思い出される」の意である。

 この動詞の未然形思ホエに接続助詞のバをつけた形は、万葉集に三例ある。作者名を略して記す。

かくばかり面影にのみ思ほえばいかにかもせむ人目繁くて
                    (七五二)
別れてもまたも会ふべく思ほえば心乱れて吾恋ひめやも
                   (一八〇五)
今のごと恋しく君が思ほえばいかにかもせむするすべのなさ                 (三九二八)

 どの「思ほえば」も、「ひとりでに思い出されるならば」の仮定の意味に使っている。「別れてもまたも会ふべく思ほえば」は、「別れてもまたも会うことができると思われるならば、心乱れてこんなに私は恋しく思うだろうか。また会えないと思うからこそ・・」という心である。「思ほえば」は「思われるので」という既定の条件句ではない。

 先にあげた四首に返ると、「思ほへば」は「思へば」と混同された形だが、長塚節も初期に「思ほひて」などとやった例もあるが、いわば存在しない幽霊語である。「思ほえば」としても、ここは仮定ではないからダメだ。「思ほゆれば」と已然形を用いれば語法に適うであろうが、それもなじめない。ここは、「思へれば」とでも言うべきところか。なお「思ほゆ」を「思おゆ」と新仮名で書くのは、私は」賛成できない。

 「思ほえど」という形に接するのは初めてである。「思ほゆ」は、四段活用ではないからこれは成立しない。「思ほゆれど」と言えばいいが、それよりもここも「思へれど」とでもすれば難がなくなる。「思ほへど」では、幽霊語になってしまう。

 「思ほえば」の誤用は、明治時代からあるが、引用は省く。既に書いたが、茂吉の使用例としては、

目をあけてしぬのめごろと思ほえばのびのびと足をのばすなりけり              『赤光』
おもほえばかなしくもあるか熱たかく七日ふして父は死にゆきしとふ           『ともしび』

があるが、この二例のみなのは、誤用だと気づいたからであろう。なお、土屋文明の『往還集』に次の一首がある。

思ほえばこやせる御顔大きくあり眼鏡もともにをさめまつりき 

 伊藤左千夫の十五回忌に際してのもので、「思ほえば」はここだけのようである。

 やはり誤用であることに気づいて二度と使用しなかったものと考える。



         筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者



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