たち、ども、どち
鳥たちは洪水警報にかかわらぬこの土砂降りをいかに過ごせる 和田周三
昨夜鳴きしはこの草むらの虫どもか朝の散歩に腰かがめみつ 宇佐見雪江
相変わらず小さい言葉遣に拘るが、今回は上の「鳥たち」「虫ども」の「たち」「ども」などという接尾語につき一言したい。これも以前に触れたことであるが、再言してみたいのである。 上の第一首は「角川短歌年鑑」の平成五年版、第二首は「歌壇」アンソロジー92より抜いた。
私たちは、近頃は殆ど「私ども」とか「手前ども」とかのへりくっだった言い方をしなくなったように思う。「女ども」などと言うと、差別語になってしまう。
むし暑き風を連れゆく女たちフライパンには蝗を入れよ(アンソロジー92) 三宅霧子
の如く「女たち」でなければならない。稀に軽蔑して「役人ども」とか「大人(おとな)ども」などとは言っても、現代の口語ではまず「たち」が「ども」を圧迫していると言っていいであろう。これは全般的に差別語を排撃しょうとする今の風潮とも関わるものかも知れない。
犬に餌を上げるという時の「上げる」がよく問題になる。「上げる」は「差し上げる」というのと同じ謙譲語であるから、犬に対しては「やる」でいいという議論である。「たち」が本来は「神たち」「仏たち」から平家の公達(きんだち)などと、身分の高い者の複数をいう接尾語だったことは言うまでもない。それが今は人間だけでなく生物一般にまで「たち」が使われるようになり大部分の人はそれに違和感も感じないのではあるまいか。だから新聞にも「消えゆく都会の羊たち」「鳥たちの楽園」などという見出しの記事が出るのである。
江戸時代の俳句を集めた「近世俳句大索引」(明治書院)を見ると、次のような句が目につく。
魚どもや桶ともしらで夕涼み
犬どもがよけてくれけり雪の道
鳥どもが口ばし冷やす若葉かな
鳥共も寝入つてゐるか余吾の海
鼠ども庵に米なし柳散る
虫どものあはれをつくす夜中かな
どれもみな「ども」を使っている。作者は「魚どもや」の句が一茶。「鳥共も」が芭蕉門人の路通。あとは私どもの知らぬ俳人なので略する。「鼠ども」を上五に置くのは、五句あるが、勿論「鼠たち」などとするものはない。これは恐らく江戸時代の言語生活を反映させたもので、会話でも「ねずみたち」「鳥たち」などとは、まず言わなかったものであろう。そこは、日本語の本来の伝統を守っているのである。今、ここに『土屋文明全歌集』から数首を引く。
縁に並べ寒さ防ぎし春蘭の花を一夜(ひとよ)に食ひ荒しぬ鼠どもが 『六月風』 湯畑にのぼる湯けむりを前にして一井(いちゐ)旅館にむらがり巡る燕ども 『山下水』
大隈の志布志におそき秋暑しうどんの店に群がる蠅ども 『青南集』
以上は「鼠ども」「燕ども」「蠅ども」と、きちんとわきまえた言い方をしている。
楼(ろう)の上の轟(とどろ)くみれば松の葉を止枡(とます)に量(はか)る裸形(らぎやう)の法師(ほふし)ども 『六月風』
草くぐる水に声ある夕べにて狭きに歩む吾とうからども 『自流泉』 新年になりて砂糖を高くする砂糖屋を憎む明治以来の砂糖屋ども 『青南集』
これらにも「法師ども」「うからども」「砂糖屋ども」と「ども」を使っている。「砂糖屋ども」は「憎む」のだから「砂糖屋たち」では勿論いけない。
しかし前述したように現在では「ども」が勢力を失ってしまった。「木々渡り嵐の如く猿達はえづけの音に走りくるなり」はどこかの選歌で出会った歌であるが、「猿達」に違和感を持つ人も、あまりいないであろう。いつかアララギで「豚たち」という表現にお目にかかって、さすがの私も辟易したが「猿たち」はいいが、「豚たち」は悪いともいえまい。だが、私はやはり「虫ども」「豚ども」「猿ども」と、何と言っても人間の優位性を保つ表現のほうに味方する。なお「ら」という接尾語は、本来「たち」「ども」の中間にあり、人間に使うほかに「鴨ら」などとも言うが、これは省く。
玄関より一列に入り来る蟻どちに子ら驚きてひとまず通す 花山多佳子
これは、『草舟』の一首。「どち」は仲間同志という意で万葉にも「思ふ人どち」とあるように接尾語としても使われる。「蟻たち」とも蟻どもとも言わずに「蟻どち」と言ったところに、一種の新しさがあると言えようか。したしみをこめた言い方である。人間以外のものに「どち」を使った例は、今までもあったかも知れないが、私には上の歌が初めてであった。「たち」「ども」のついでに一言しておく。
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
|