「食(を)す」と茂吉
佐藤佐太郎著『斎藤茂吉言行』の昭和十八年二月十一日のところで、茂吉が佐太郎や山口茂吉に『赤光』以下の茂吉歌集から「食(を)す」の用例を捜させる記事がある。そして「僕は〈食(を)す〉というのは音調でいうので、敬語ということにしなくてもいいとおもうな。前後のぐあいで敬語になる場合もあるが。」という談話を伝えている。これは「童馬山房夜話」の315以下の「食(を)す」の項を書くための準備であった。その内容を手短かに記すと、
おのが身しいとほしければかほそ身をあはれがりつつ飯食(いひを)しにけり
『赤光』の一首であるが、国語学者の金田一京助が、自分の「飯を食ふ」ことを「飯を食(を)す」と言うのは、「食(を)す」は「召し上がる」「食し給ふ」ということだから、田舎出の女がうっかり「私がおっしゃった」とまちがうようなものと批判した。それについての反論であって、古典の用例についての諸説を引用して結論として「食(を)す」が、他人の行為に限るもので必ず敬語に用いるべきものと断定できぬ以上は安んじて今までどおりの用法をなす、何もびくびくする必要はないと宣言した。そして用語に対する作家の態度は自主的たるべく、極端にいうなら用語は作家の自由勝手たるべきものとまで息まいてしまった。金田一京助の子息の春彦氏が、この茂吉の「食す」は、自分勝手な強弁であるというような批評をしたのを何かで読んだ記憶があるが、そういう批評も全く否定はできないかも知れない。
ところが、茂吉は右の「童馬山房夜話」の文中に、自作の「食す」の用例を初期作品から昭和十七年の「いでたたむ軍医中尉の弟とひるの餅(もちひ)を食(を)すいとまあり」まであげるが、この「夜話」での反論ののちは、「食す」の使用が非常に慎重になった。
みちのくの農とかたみに老いづきて川の魚さへ食ふこともなし
象潟の浜のいさごに飯(いひ)を食(を)す藤井康夫はねもころにして
全集の短歌拾遺の昭和二十二年にあり「独吟」と題して発表されたなかの二首。自分に関わる場合は「食ふ」で、人は「食す」である。なお最終歌集の『つきかげ』より引く。
かみつけの山べのたら(木へんに怱)はみつみつし吾にも食(を)せともてぞ来(きた)れる
日をつぎてうまらに君の食(を)すきけば君の癒えむ日こころ待ちどほし
わきいづる清きながれに茂りたる芹をぞたびし食(を)したまへとて
まだほかにもあるが、以上にとどめる。そして「食す」を自らの行為として詠む「おのが身しいとほしければ・・・飯食しにけり」式の言い方が絶えてしまった。「安んじて今までどおりの用法をなす、何もびくびくする必要はない」と強がりを言いながら、結局金田一の批判が常に頭にあり、それ以後は「自主的な用語」の使用を中止してしまったということになる。しかし茂吉も言っているように明治の辞書言海なども「食す」を敬語と見ていないから明治大正の時代に自ら食うことを「食す」と表現しても、それを直ちに誤であるとは言えない。そういう使用法は、茂吉だけでなく当時の歌人に少からず見られる。土屋文明の、
夕べ食(を)すはうれん草は茎(くく)立てり淋しさを遠くつげてやらまし
の『ふゆくさ』の歌などはその一例である。
現代の古語辞典類を見ると、「食(を)す」は、「食う・飲む」「着る」「治める」のそれぞれの敬語とし、まず「食う」から説くものが多いが、「治める」の意を最初にするものもある。大言海の言う如く「居(を)す」が語源であるならば、「食国(をすくに)」などの「統治される」意の「食(を)す」から説くのが正しいのであろう。しかし「治める」からなぜ「食う」などの意に変わるのか分からない。とにかく近代現代短歌では「食う」の意にしか使われずそれも尊敬語でなく自分の動作に使用するのが慣例である。これはもう誤だなどと言ってはいられない。最近の歌人の用例は、省略しよう。三谷昭編の『現代俳句用語辞典』には、「食す」を取り上げて、
山ごもる大和は遠し目刺食す 石橋 秀野
気泡多きパン食すさむき海見つめ 鈴木 河郎
の例をあげている。これは短歌からの影響であろう。
古典の例はあげなかったが、よく引かれる万葉集巻一の次の一首だけは一言いいたい。
打麻(うちそ)を麻続(をみ)の王(おほきみ)海人(あま)なれやいらごの島の玉藻刈り麻須
結句の最後の二字は原文のままにした。これを「刈ります」と訓(よ)むと、万葉には食う意の「食(を)す」が皆無になる。しかしそれは、一首のなかで「麻」の字を、ソ・ヲ・マと訓み分けるのである。訓詁のことは知らぬが、これは変ではないか。「刈り食(を)す」と訓みたい。
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
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