「愛す」
暁の椿事ファクシミリは「君を愛」にて断れて「す」か「しない」のか
「歌壇」(平5・6)に載った塚本邦雄氏の愉快な一首である。つまり「愛す」なのか「愛しない」なのか、どちらの意かということだ。この「愛す」は、口語として使われているのであろう。近頃の国語辞典は、殆どが「愛す」を口語の五段活用の動詞として認めているようだ。
広辞苑は、第二版補訂版までは「愛す」を見出し語とせず「愛する」の説明のなかで「愛す」という口語形も一応示しているにすぎなかった。ところが第三版以後は「愛す」を見出し語として掲げ、他動詞五段とし、〈「愛する」に同じ〉と説明する。まだ「愛する」のほうを主にするが、「愛す」も口語として一人前に扱っているのである。それだけ「愛す」が現代語として勢を増したと言えるようだ。婦人雑誌などに「愛さずにはいられない」というような言い分が出てくるのは普通であろう。(塚本作の「(愛)しない」も、今は「(愛)さない」のほうが優勢か。)『愛するとき愛されるとき』という書名の本を見たことがある。さすがに連体形は「愛すとき」ではなく「愛するとき」と言う形のほうが一般的ではある。
「愛す」を五段活用にするならば、当然可能動詞「愛せる」も出てくる。今これを書いている日の読売新聞の「人生案内」に、「夫を愛せず、別れた人思う」という見出しの記事が載っている。「愛せず」は「愛することができず」の意で、可能動詞の扱いである。
さて、ここで文語の「愛す」に触れなければならない。勿論「愛す」は、「愛」と「す」の接合したいわゆるサ変の動詞である。
紅梅の実の小さきを愛(あい)せむとおり立ち来たりわれのさ庭に 斎藤茂吉『つきかげ』
吾が歌を愛せし一人この夏は命保たぬを告げて来りき
近藤芳美『静かなる意志』
惜しみなく愛せしことも美しき記憶となして別れゆくべし
大野誠夫『行春館雑唱』
愛せられ一生(ひとよ)を早くみまかれば生めるみ子等にもその後あはず 土屋文明『自流泉』
思いつくまま挙げてみたが、以上の「愛せむ」「愛せし」「愛せられ」は、サ変「愛す」の未然形を正しく使っている。「愛さむ」とか「愛しし」とか「愛せられ」というような口語の影響による崩れた形にはなっていないところに注意すべきである。
わが庭に鳴ける蛙(かへる)を愛すれど肉眼をもてその蛙見ず 斎藤茂吉『つきかげ』
「愛すれど」は已然系。これも「愛せど」というような口語五段の影響を受けた形にはなっていない。
しかしもともとこの「愛す」という動詞は江戸時代から崩れる傾向もあった。芭蕉の「奥の細道」の松島のところで「負へるあり抱けるあり、児孫を愛すがごとし」と記したのは、「愛するがごとし」とすべきなのだ。そう言えば、蕪村の「二もとの梅に遅速を愛す哉」も、語法的には「愛する哉」と言うべきところであろう。
愛さるるために絶対に愛するなとそそのかしきて夜の庭にたつ 生方たつゑ『白い風の中で』
愛されしことなき眸は何を見る樹にし垂れたり殺されにけり 河野愛子 『魚文光』
「愛さるる」「愛されし」は口語的で、本来は「愛せらるる」「愛せられし」と言うべきところ。「愛するな」は「愛すな」とするほうがいい。しかしもうこの辺のところは、誤用だと息巻くこともできない。
夕ぐれの豆腐は籠にしづまりて深く愛さず怨むことなく 馬場あき子「短歌」(平6・2)
「深く愛さず」は、「深く愛せず」が正当的であるが、それだと「深く愛することができない」の可能動詞の言い方と解されるおそれも出て来よう。
つきつめて己を聢(しか)と愛せざるものこそ罪と思ひはじめぬ 福田路子『青き瓶』
この「愛せざる」は、どういう意か。やはり「愛することができない」という意味合いに使っているのであろうか。
仁井田教授を然気(さりげ)なく我に問ひましき君に見き人と学を愛す心を 『落合京太郎全歌集』
このように「愛す」を連体形に使う例は、多くはないが、時に見つかる。しかし、これはやはり「人と学を愛する心を」とすべきであろう。このサ変の動詞は、その活用を守り得るところは、口語の言い方になびかずになるべくきちんと守って表現したいものだ。なお「愛す」から離れるが一言する。
人をしも信ぜむとするこのこころ持つに悲しく捨てむにさびし 窪田空穂 『鏡葉』
ナチ起るときにドイツ語を学びにきナチ崩壊を信じんとして 高安国世『街上』
「信ぜむ」「信じん」と、二つの形になっているが、勿論サ変の動詞としては前者が正しい。口語の「信ずる」「信じる」は、最近は後者のほうが優勢になっているが、作歌の上では「信ぜむ」に従いたい。「信ぜよ、さらば救われん」ではないか。
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
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