ひそけし、かそけし
釈迢空の『海やまのあひだ』から引く。
沢なかの木地屋(キヂヤ)の家にゆくわれのひそけき歩みは誰知らめやも
邑(ムラ)山の松の木むらに日はあたりひそけきかもよ旅びとの墓
かの子らやわれに知らえぬ妻とりて生きのひそけさにわびつゝをゐむ
谷々に家居ちりぼひひそけさよ山の木の間に息づくわれは
迢空流の表記法を廃して普通の書き方に改めた。『海やまのあひだ』の巻頭から数頁のところにある「ひそけき」「ひそけさ」を含んだ作を並べてみたが、この迢空が好んだと見える用語はまだまだ見えるけれど以上にとどめる。言うまでもなく「ひそけき」は、形容詞「ひそけし」の連体形。「ひそけさ」は、その名詞の形である。
この「ひそけし」が、一般の国語辞典に収録されていないということを、安田純生氏の『現代短歌のことば』によって教えられた。なるほど日本国語大辞典や広辞苑などには見えない。
ここで茂吉の使用例を挙げよう。
号外は「死刑」報ぜりしかれども行くもろつびとただにひそけし 『暁紅』
清涼寺はひそけくありきをとめごの尼も居りつつ悲しからねど 『連山』
秋づくといへば光もしづかにて胡麻(ごま)のこぼるるひそけさにあり 『白き山』
なお白秋にも「ひそけさよ小さき目白の枝越しに揺りつつきをりまんまろき柿を」(『風隠集』)などがあり、近代歌人の歌集から「ひそけし」を捜すのは、困難ではないだろう。
一般の国語辞典には確かに収録されていないが、不可解なのは、大言海が「ひそけき」という連体形のみを見出し語に出して、「ヒソカナリ。」として何の用例も示していないことだ。安田氏は、『短歌文法辞典・新版』(飯塚書店)に、この「ひそけし」を取り上げていると言われる。それは手許にないが、同じ発行所の司代隆三編著『短歌用語辞典・新版』を見ると「ひそか」はあっても、「ひそけし」は、やはり見当らない。ただ飯塚書店編集部の『短歌常用語辞典(形容詞・形容動詞編)』にはこれを取り上げて、
鎚音にはたとやみたる蟋蟀(こほろぎ)のまた鳴きつぐを待てばひそけし(終止) 塚原 嘉重
ひそけくも女人唐俑の背丈ほどに花株埋めし雪は恥ぢらふ(連用) 大滝 貞一
朝食の人らを待ちてビルの中ひそけき店を人は清むる(連体) 田谷 鋭
の三例を示している。また鳥居正博編著の『歌語例歌事典』には「かそけし・ひそけし」を並べて「二語とも中古中世の古歌にはほとんど見えない。」とし「ひそけし」は「ひそか」の形容詞化と説いて「ひそけき吾が世帯を書き入るるかな昼寝より覚め裸となりて」という吉田正俊(『天沼』)の一首を挙げたのが目に止まった。木俣修編の『現代作歌用語辞典』には「ひそけし」は見えない。
要するに一般の辞書には殆ど見られず、短歌用語辞典の類には載せたり載せなかったりの状態なのである。
もう簡単に書くこととして、角川の『新編国歌大観』の索引を見ても「ひそけし」の用例はない。ただ江戸時代までの使用例に「ひそかなりける」「ひそかにそでの」「ひそかにひらく」というようなものが、少ないながら見つかる。「ひそかに」はあっても「ひそけし」の形容詞は、江戸時代までは発生せず明治以後の近代になって、ぼつぼつ使用されるようになったものか。
しかし、ヒソカ・ヒソヒソ・ヒソマル・ヒソム・ヒソメク・ヒソヤカという同源の語があり、特にヒソカがあればヒソケシが導き出されるのは、ノドカ・ノドケシ、ハルカ・ハルケシの関係と同様であって不自然ではない。古典に例がなくても、近代現代の短歌に普通に用いられているのであるから、広辞苑などで採用しないのは、編集者の怠慢であると言ってもいいのではあるまいか。
「かそけし」についても書く予定だったが余白がなくなった。この「かそけし」は万葉の家持作に二例あり「吹く風の音のかそけきこの夕べかも」が有名だがもうひとつ「夕月夜かそけき野辺に」という使用もある。「かそけし」があれば、上代にはそれに対応する「かそか」も存在したのだろう。しかし文献の記載はないようだ。平安以後は「かすか」が使われるようになる。すると「かすけし」も派生されそうであるが、この出現は、やはり明治以後であるらしい。
明治三十九年発行の薄田泣菫の詩集『白羊宮』には「おもひでの吐息かすけき面(おもて)やつれ」とか「今宵かすけき囁(ささや)きに」とか、「かすけき」がしきりに出て来る。すると明治の詩人どもが使い始めであろうか。ここで現代短歌の「かすけし」の例を挙げたいが、もう書く場所がなくなった。
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
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