「無罪とせりし」「少女あれこそ」
山本友一氏が「歌壇」のこの九月号に発表された作品の中に次の一首があった。
人殺しを無罪とせりしアメリカの陪審制ぞくそでもくらへ
内容もさることながら、私は「無罪とせりし」という言い方に目を止めた。「無罪とせし」ではなく「せりし」というところに注意したのである。「せし」と「せりし」は声調の差はあっても意味の上では殆ど差のないものであろう。この「せりし」が古典にあったかと考えるとすぐ思い当たったのは、万葉集の次の一首、巻五(八六九)の山上憶良の、
帯日売神(たらしひめ)の命(みこと)の魚(な)釣らすとみ立たしせりし石を誰見き
という神功皇后の伝説を詠じた歌である。「み立たし」という名詞のあとに「せりし」が続いて「お立ちになった」という意味になる。この歌は、結句の「誰見き」という語法、つまり「誰見し」などと言わずに、「誰」という語法、つまり「誰見し」などと言わずに「誰」という語の下を動詞の終止形で結ぶ特別な語法によって注意される作品であるが「み立たしせりし」も万葉集には他に用例もない。この「せりし」を山本氏が意識的に使用されたのか、同氏の以前の作品、また他の歌人にも先例があるのか、細かく調べられないが、とにかく万葉語法の復活であることは、間違いない。
さてここまで書いて来て、土屋文明の次の作品が思い浮かんだ。
六十の憶良この国に守(かみ)として足痛む日は浴(ゆあ)む知れりきや 『自流泉』
疎開先大豆のありて宗硯和尚指図のままに納豆作れりき 『続々青南集』
茂り過ぎる木なら暫く年待てと桃作り民一いしくも言へりき 『同』
それぞれの結句の「知れりきや」「作れりき」「言へりき」はいずれも完了の助動詞「り」のあとに、回想の「き」がついているので「せりし」と同様の語法で、助動詞の終止形と連体形の違いがあるだけである。この言い方は案外ひそかにひろまっているのかも知れない。今、思いついて岡麓の『宿墨詠草』(昭11〜昭19)をのぞいてみたら
芸の事知らざる者のはしたなき問(とひ)に答へて笑(え)みおはせりし
夏ふけぬ竹の新葉のことごとく竹毛虫つきて食みつくせりし
のような作品があるではないか。特別視する必要もない語法なのであろうか。
芝生あり林あり白き校舎あり清き世ねがふ少女(をとめ)あれこそ
これは、土屋文明の『六月風』の「某日某学園にて」の一首。今は結句の「少女あれこそ」の解釈だけを問題にしたい。近刊の『岡井隆コレクション』の「持論・詩人論集成」に収められた「自歌自注」のなかで、岡井氏は上の文明作品を引き「『・・あり・・・あり・・・あり・・・あれ』といふ具合に物と物とが『あり』といふ存在を示す同一の語によって並列されてゐて、一番終りに、『あれこそ』といふ願望が来る。」と説明された。しかし「清き世願ふ少女あれこそ」が願望だとすると、すぐ前の歌「清き世をこひねがひつつひたすらなる処女等(をとめら)の中に今日はもの言ふ」の内容といささか矛盾する。清き世を願う少女は眼前にいるのである。「あれこそ」は願望ではあるまい。
鶯の待ちがてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため(八四五)
敷島の大和の国はことだまのたすくる国ぞま幸くありこそ(三二五四)
万葉集の二首であるが、希求する時は「ありこそ」で、「こそ」の上の動詞は連用形が来る。「酒に浮かべこそ」とか「夢に見えこそ」「妹に告げこそ」など万葉の詞句も、みな動詞は連用形と見るべきである。
それでは「少女あれこそ」は、いかなる意味か。「あれ」は已然形でここでは「少女あればこそ」の意であろうと思う。こういう句法は、たとえば万葉の「天地もよりてあれこそ」(五〇)というような「あればこそ」の「ば」を省略する呼吸を学んだと思われる。つまり「芝生があり林があり白き校舎があるのは、清き世を願う少女がいればこそである」という意味合いになる。
作者は自覚的に万葉の語法を踏まえつつこのように詠んだものと考えられるのである。
付記。前月号に「目をあきて」の茂吉の使用例を『あらたま』以下の作品から挙げたが、中村憲吉の『林泉集』にも次の歌があるのに気づいた。大正五年の「磯の光」の一首。
みなぎらふ潮のひかりはおほけなし眼を開きて居て如何にわがせむ
第四句がメヲアキテヰテである。そうすると大正時代の大体同じ頃に、茂吉や憲吉がこの「目をあきて」を使い始めたと言っていいだろうか。
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
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