茂吉の「変な歌」
Münchenにわが居りしとき夜ふけて陰の白毛を切りて棄てにき
茂吉の第六歌集『ともしび』にある有名な歌だ。初出は大正十四年の「改造」九月号で、それには第二句が「われ居りしとき」結句が「切りて棄てしか」となっていた。(このほうを私は取る。)茂吉が戦後に書いた「茂吉小話」のなかの〈「ともしび」余禄〉という一文に「この一首は変な歌なので評判になった。」と記し、発表になると佐佐木信綱・川田順の連名で「『ほと』という語は女人に限った語ではあるまいかと注意を下された。」と回顧している。それで茂吉も不安になって「陰の白毛」を「白陰毛」などと直してみたが、歌集校正の際に柴生田稔に注意されてもとの形にもどしたと言うのである。『ともしび』発行(昭和25年)の前後だったと思うが「先生は『白陰毛』と直してしまったんだからね。」と柴生田氏はあきれ顔で言われた。(その注意が、内心おもしろくなかったのか、『ともしび』の後記に世話になった人を列記したなかに柴生田稔の名は見えない。)
茂吉は、右の文章の最後に「後日、京都の生田耕一氏が『ほと考』といふものを書かれて、やはり『ほと』といふ言葉は男性にも使ひ得るといふ説をたてた。」と書き結んでいる。その「ほと考」というものは知らないが、古事記・日本書紀等の古代の文献は女人に限られているもの、平安初期の辞書「和名抄」に「陰、今案玉茎・玉門等通称也」とあるのに従えば、男性にも堂々と使い得ることになる。
広辞苑は、第二版になって「男性についてもいうか」と注したが、第三版第四版では「一説に、男についてもいう」と多少ニュアンスを変えて記述する。これは茂吉の一首が影響しているのではあるまいか。
なお「ほと」の語源は、諸説あるのに広辞苑第三版以下で「凹所の意」と断定しているのは解(げ)せない。
とにかく「ほと」なる語は、古事記等には見られるにしても、古代歌謡や万葉集には用いられず、無論平安以後の和歌にも登場しない。恐らく「ほと」という古語を使用したのは、茂吉あたりが最初ではなかろうか。
斧ふりて木を伐る側(そば)に小夜床(さよどこ)の陰(ほと)のかなしさ歌ひてゐたり
という『赤光』(大正元年)の作がある。ついでに全集の「短歌拾遺」のなかの、
夜光珠止雖言未通女乃富登之価爾豈志加目也茂
という手帳のひそかなる歌(昭和六年)をも紹介しておこう。これは「未通女乃富登(をとめごのほと)」である。なお大正時代、アララギ(8年6月)に発表された信州の作者両角七美雄の次の歌、
ほるままにほとほと吾れにまかせにし汝(いまし)がみほと愛(いつくし)きかも
は、当時評判になった作品のようだ。これは名歌の資格がある。
城ケ島の女子(をなご)うららに裸となり見れば陰(ほと)出しよく寝たるかも 北原白秋『雲母集』 老の息かくて絶えなむ女童(めわらは)の陰(ほと)どころさへも知りきと泣くを 同 『夢殿』
白秋の二首を引いた。古代人が敬遠した「ほと」も、近代現代の歌人は、ためらわずに作歌の中に持ち込む。しかし殆どは「女人に限る」のである。しかも持ち込むのは男性の作者だ。
湯あがりに躰きれいに拭きたるに陰(ほと)よりぽとりと雫のおちし 金沢邦子・個性(平成7・6)
かように女性が己れのそれをひるまずに詠ずるのは稀なる例だと思われる。
シッカロール秀処(ほと)にぞはたき湯上りの中年さびしき郷愁に在り
これは、近刊の島田修三歌集『東海憑曲集』より。茂吉流に使用するとともに、語源が「秀処(ほと)」であると主張している。(語源は、ほかに含処とか火戸とかの説あり。)
ここで少し余白があるので、各地に残る地名について一言する。横浜市の保土ヶ谷、秩父の宝登山、千葉県我孫子市の岡発止(おかほつと)、埼玉県羽生市の発戸(ほつと)などは、その地形に基づく地名であるに違いない。土屋文明の故郷の今の群馬県の保渡田(ほどた)も、古墳による地形から名づけられたのではあるまいか。そのほか、秋田市の保戸野、福島県須賀川市の保土原、静岡県御殿場市の保土沢など、実際の地形は知らないが、その地名が地形を暗示していると考えていいのではないか。すると「ほと」という古語が、地名に残存したことになる。そしてその地名は、やはりどうも「女人」に限るのである。
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
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