および、おゆび、をよび、をゆび
指のことを古語で「および」と言うことは万葉集の山上憶良の次の一首によってよく知られている。
秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数ふれば七くさの花(一五三七)
この原文の第三句は、「指折」であるから「指(ゆび)折りて」と訓ずることもできなくはないだろうが「指(および)折り」として、和名抄の「指、由比、俗云於与比」が引かれる。平安末期の名義抄にも「指、ユビ、俗云オヨビ」とある由だ。するとユビのほうが、オヨビよりも標準的な言葉の如くに見えるが、岩波古語辞典を見ると、ユビは「古形オヨビの転」としている。オヨビがより古い言葉であることはまちがいあるまい。「及ぶ」という動詞は、数をかぞえる時に指を使うから、このオヨビが動詞になったのではないか。そういう語源説もあるであろう。ついでに指は「結ふ」という動詞に関係あるに違いない。結うのに指を使うのだから。(それは全くの民間語源説であろうか。)
この「指(および)」は、中世以降の和歌には殆ど使われなかったのではないかと思うが、詳しく調べたわけではない。
指(および)触り冬は頼めし明笛の竹紙(ちくし)のつよき張りぞひびらぐ 白秋『黒檜』
のぼりゆく山のいただき近くしていでし蕨はおよびのごとし 茂吉『霜』
白秋、茂吉の二首のみを挙げた。これは憶良の用語をそのまま用いている。しかしオヨビは、何と言っても古めかしい語感がつきまとう。それで現代歌人が多く使うのは、オユビである。広辞苑第四版を今見ると、オユビは「オヨビの転」とある。古い用例はないようだが、自然に受け入れられる。
うづたかく拾ひ集めぬ指(おゆび)ほどの柔(やはらか)くなりて死にたるものを 文明『少安集』
歌集にはルビはないが、岩波文庫本に「指(おゆび)」と読ませたのは、作者の意向によると見られる。
飯塚書店刊の『短歌用語辞典(新版)』を今、便宜的に引くと「おゆび」のところに、
一枚の木の葉の生気たのしみて歩む冬の日指汗ばむ 窪田章一郎
鉛筆を握るおゆびの関節がゆるみゆるみて眠りに落ちぬ 沖 ななも
などの例歌を挙げている。最近、千代國一氏の新刊歌集『花光』を読んで、
しなやかに踊る肢体の爪長き指(おゆび)さながら夢幻のうごき
岩擬宝珠(いはぎぼうし)萌え出(づ)るきはの角の芽に触るる指(おゆび)の不意の驚き
の二首を見つけた。本年のNHK学園の全国短歌大会の入選作品集に「育てきてオオムラサキを放つ子のためらいて後(のち)ひらく指(おゆび)よ」という一首もあり、もうこのオユビは、歌語としては一般的である。
ところが、赤彦に次のような歌がある。
岩が根に小指(をよび)もて引く竜胆(りんだう)は根さへもろくて土をこぼせり 『柿蔭集』
「小指(をよび)」は、「小指(こゆび)」ではなく「小(を)」を接頭語のようなつもりで使ったものか。
赤彦の若い時(明治三十五年)に「および指し人か笑はんやせ膝も黄金の前に折ると云はめや」とあるのは、正しく古語を使ったが、晩年作のヲヨビというのは、作者の錯覚的な使用法ではなかったか。それは、左千夫の初期作品「をよび折り船のつく日をけふけふと待ちにし人の心しおもほゆ」の用法に戻ってしまったと言えよう。
はつなつのかぜとなりぬとみほとけはをゆびのゆれにほのしらすらし
会津八一の『鹿鳴集』の一首で「をゆび」は、小指であると自注がある。だから仮名違いではなく、一つの造語として認めていいかとも思う。あるいは、他に用例があるか。
さて次の例は、どうだろうか。
手を延べしをゆびのあたり咲きそめし桜は風に散ることもなし
川合千鶴子氏の近刊の『遊光』の一首。「をゆび」は、右の八一の「をゆび」と同じく小指の意として使われているか。ただ「指のあたり」という意味ではあるまいか。それならば「おゆび」と書くほうがいいことになる。
以上、古語の「および」から「おゆび」「をよび」「をゆび」と使用される状態を記してみた。一般的には「指」で音数が不足する場合は、「おゆび」を使うのがまず穏当であろうと考える。
付記。少し余白を生じたので書く。昨年十月号に「日にきらふ」という題で書いた時茂吉や文明が「きらふ」を「輝く」の意味に使用していると指摘したが、それは左千夫の「籠坂ゆ北見おろして日にきらふ三ヶ月の湖の萌黄せる見ゆ」という歌などに基づくものと、このほど気づいた。
げすの知恵はあとからである。
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
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