長らふ、ながらへば
茂吉の『赤光』の「死にたまふ母」の終のほうに、次の一首がある。
遠天(をんてん)を流らふ雲にたまきはる命(いのち)は無しと云へばかなしき
年少の作歌を志した頃からの愛誦歌であるが、昔から多少の不安を感じていたのは「流らふる雲」と、「流らふ」を四段活用の連体形に使っている点であった。語法的には「流らふる雲」と言うべきではないかと思ったのである。勿論それでは声調をこわしてしまうことは分っていたが。
右の茂吉作品からすぐ思い出されるのは、次の万葉集巻一の名歌である。
うらさぶる心さまねしひさかたの天(あめ)のしぐれの流らふ見れば
この「流らふ」は、「流れるように降る」という意。このたび万葉の注釈書類をあさってみて、この「流らふ見れば」の「流らふ」につき、何も語法的な説明を加えていないものが多いのに驚いた。なかには「流らふ。見れば」として「流らふ」で切れると見なす本もあった。そんなところで切ったら、せっかくの名歌が台無しになる。それから最近の注釈書で結句を「流れあふ見れば」と訓ずるのも出て来た。「流らふ」が四段活用の形になるのを避けるためであろう。
しかし「天のしぐれの流れあふ見れば」では、これも声調無視でなさけない。要するに例外的であっても、「流らふ」に四段活用を認めればすむことである。万葉時代は、何も文法書できちんと規制されていたわけでもあるまい。
現行の辞書も、この「流らふ」の活用の取り扱いはまちまちである。岩波古語辞典は、四段を認め(ただし、万葉歌は「桜花散りて流らふ見る人無しに」のほうを引いて「天のしぐれの流らふ見れば」の有名な歌を避けたのは、一種の逃げと解する。)広辞苑第四版は、下二段として「流らふ見れば」の歌を引く。つまり分裂しているのだ。
とにかく「流らふ」に四段活用を認めれば茂吉の「流らふ雲」をあやしまなくていい。なお左千夫に「天の原流らふ星もわがごとく蓋しや迷ふ見つつ悲しも」などもあり、更に明治の新体詩にも同じ用法が見えるから、これを特別視する必要もないとも言える。ついでに言うと、万葉集巻一には、
ながらふる妻吹く風の寒き夜にわが背の君はひとりか寝(ぬ)らむ
というメンドウな歌があるが、これは引くだけにする。宮柊二の『晩夏』の次の一首、
ながらふる天の時雨の寒きときわが三十七の齢(よはい)おもほゆ
は、右の万葉歌二首を踏まえて詠じたと見える。なお茂吉には「ながらふる月のひかりに照らされしわが足もとの秋ぐさのはな」(『つゆじも』)というのもあり、音律の配慮により「ながらふ」「ながらふる」を使い分けている。四段と下二段である。
「流らふ」という動詞は、ナガルに継続の意のフがついたものと見ればいい。そのナガルは、岩波古語辞典の説くようにナガシ(長)ナゲ(投)と同根である。「ながらふ」は、平面上の流れだけでなく、時間的に「長らふ・永らふ・存ふ」の意味にもなる。岩波古語辞典等で「流らふ」と「長らふ」を全くの別語とするのは、変ではないか。「長らふ」系統の言葉は、現在まで殆ど下二段の動詞として扱われる。次は百人一首のなかより。
心にもあらで憂き世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな 三条院
ながらへばまたこのごろや偲ばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき 藤原 清輔
「ながらへば」は、どちらも下二段未然形に「ば」がついたので「もし生き永らえるならば」と仮定を表わしている。一首目など四段にして「永らえているので」と解したくもなるが、それはやはり誤だ。
しかし「流らふ」に四段活用を認めるならば、当然「長らふ」「永らふ」の方向の動詞も四段化するのは、止むを得ない。
おさらばも出来ずに世にし永らへばあの世に行きても知る人無けむ 大屋 正吉
「橄欖」五月号にたまたま見つけた一首。この「永らへば」は、先の百人一首の歌とは違って明らかに「生き永らえているので」という既定形である。これは語法違反とも言いきれない。だが、今大急ぎで「歌壇」八月号を見ると、
敗戦ののち永(なが)らへて五十年純粋短詩にいのちささへき 吉田和気子
鴻毛の軽きいのちを存(なが)らへて戦後五十年摩文仁野を踏む 平良 好児
の如くにあり、「永らひて」ではなく「永らへて」の形であるから、現在も基本的には下二段活用が守られていることを知るのである。
筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
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