機(き)と机(き)
先年物故された「未来」の古明地実氏がまだ元気だった頃、或る会合で隣り合わせになって歌の用語につき雑談するうち、ふと思いついて「飛行機を単に『機』と略して使用する人がいるが、それを認めるか」と私が質問したら「それは断じて認めない」という答えが返って来た。私も認めたくないのでその返答に満足した。そんなことが今思い出される。
手許の歌集から捜してみよう。
目薬をさしてしばしを安らぐか機のなかに子は眼を閉ぢてをり 大河原淳行『トリトニアの花』
山や川やわが目は向ふ機の下に父の一生の心知るべく 同
この歌の前に「なほ高度あげてゆくとき機内にて目薬をさす妻と娘と」があり、シベリア上空を行く際の作品であることが分かるから安心して「機」を使っているのだろうが、それにしてもただ一字一音の「機」のみを単独に使用することには抵抗を感ずるのだ。
旋回をする爆音のきこゆれど密林にしてその機は見えず 小内通有『ガダルカナル』
反転し噛みつく如く襲ふ機を素早くのがれ横転しゆく 同
このように「機」を使えば便利には違いないが、この歌集にある「悩まされつづけし敵機に待ちまちし友軍機みれば胸の熱かり」の「敵機」「友軍機」の如き熟語の自然さとは差があって素直に受け入れ難い。
戦闘機、民間機、ジェット機、日航機のような言葉または、機内、機上、機翼、機長、機影のような用語は、勿論不自然ではない。「機上の人となる」などという言い方が一般的になれば短歌では「機」だけ遊離し独立して使われるようになるのも無理もないと言えようが、このキと発音する語感の悪さは、否定できないではないか。
機に乗る日卵一つと牛乳の一本が特別につく記録あり 下村 道子
角川の「短歌年鑑」平成九年版の自選作品集より見つけた一首。とにかくこういう風に使われている。今、北原白秋は飛行機に乗った人だからと思って歌集を見ると、
夏雲の下蒸す霞陽(ひ)ににほひ機はあかりをり音速(はや)みつつ
という一首が忽ち見つかった。『渓流唱』の「大阪に飛ぶ」のなかにあり、昭和十一年作。白秋のような人も使ったのかと、いささかがっかりした。ついでに言えば「峯ちかく雲のむらだちしきりなるみづうみのうへを飛びをり我は」などは、羽が生えて空中遊泳を試みているような感じだ。飛行吟のむずかしさである。
大体「具(ぐ)」とか「頭(ず)」とか漢字音の一音の語は、要注意であろう。
几(き)のうへの薬の小瓶それぞれに秋のひかりをもつべくなりぬ 木俣修『昏々明々』
木俣作品に時に見える「几(き)」という音読のキを独立語にさせた言葉も、私には気になる用語の一つである。「几帳」などという語に使われる「几」である。「几」「机」は通用する文字のようだ。前記の「機」は、飛行機の略語として辞書類にも載っているが、こちらは一般の辞書には収録されていても、用例もない。飯塚書店の『短歌用語辞典』(新版、司代隆三編著)には、「き」のところを見ると、
き 机・几(各)つくえ。
として四首が引用されている。
くれなゐの凝(こご)りゆきつつ机の上の柘榴が放つつひの咆哮 高嶋 健一
春しぐれ机の辺にのこるほのあかり老のひと日のとりとめもなく 山田 あき
三河にて無名に古(ふ)りし短冊を机の上(へ)につめば千枚(ちひら)にも越ゆ 熊谷 武至
机の上にのりし蜜柑がひとつある放ちて返すところさびしも 岡部桂一郎
それぞれの「机」にルビはないが、原作のままか。勿論キと読むべきもので、この用語はかなり広まっているのではないか。誰が使い始めたのであろうか。古典には使用例がないと思われる。なお記せば、
机(き)にしろく紙のべしとき昼月のかかる空ありうすき空なる 雨宮雅子『悲神』
などとあるのにも最近気づいた。歌言葉は、どうもひそかに伝染する。「机」と独立語にさせないで、例えば「終刊号一冊置けりこのままに年を越すべく机上昏れゆく」(島田修二『草木國土』)というふうにしたいものである。
以上、「機」にしても「几・机」にしても、あくまで私の主観的な好悪の観点からの意見で人に押しつけるつもりはない。自分はイヤダと言うだけだ。「気」とか「忌」とかいう語となれば、また感じが違うから一律に扱うわけではない。
筆者:宮地伸一 新アララギ編集委員、選者
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