短歌雑記帳

宮地伸一の「アララギ作品評」


○息ふれて寄りゐる顔の匂ふと言ひき君をば思ふ眠らむとして     太田 よ志
○動悸打つ胸に手を置き逢へざりし悲しみのまま眠らむとする     直原 鶴代

【榎本順行】何れも就寝前の感慨であるが、「顔匂ふと」「胸に手を置き」がこの歌をかろうじて救っている所であろう。しかし先進にこうした題材に好い歌がのこされていることも考えてよいのではなかろうか。

【宮地伸一】「眠らむとする」時の、意識下に身体的感覚をも潜めた詠嘆と見なす事ができよう。一首目の方が調子は屈折しているがよいと思う。二首目は「胸に手を置き」がやはり言いすぎであろう。

○手を伸べし吾に気づかず背を向けて石段を去りてゆきし君はも     貝原 正佐子

【宮地伸一】素直な詠嘆で快い。「背を向けて」はいらない表現だろう。下句は「命よろこび行きし君はも」(山谷集)から来ている。今回は相聞的な作品に少しく注意してみたが、狭義の相聞歌と目されるものは選歌欄全体の七、八%くらいで案外少なかった。僕はアララギの其二という所は、現代の新しい「民謡」であると思っているが、万葉の民謡に比較して恋愛相聞の情があまりにも少ない事が特徴的だ。そうして万葉の民謡より(作品価値は別として)おおむね肉体的でなく、つつましくて寂しい。万葉のは、大勢の前で謡われるべき性質だが、こちらは、やはり個の嘆き苦しみがこもるからである。しかもこういう時代にあっては、デカダンスに流れるのでなければ、かえってひそやかに内に潜むというようになるのであろう。

【榎本順行】素直な詠嘆という前評に賛成。私には「背を向けて」よりも「石段を」の「を」の処置がうまくないと思った。前評にもある如く其二の相聞歌が「肉体的でなく、つつましくて寂しい」という点は同感で、本来ならもっと明るい、開放的な恋愛歌が生れていいわけだが、そうした社会情勢ではないというのも本当であろう。このことは叙景歌にも言えることだと思う。「個」の喜びなり嘆きが集団(社会)として高められたとき歌も変るのではないかとも思う。

昭和28年6月号

 (漢字は新字体に、仮名は新仮名遣いに書き換えました。)



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