雲の中に赤く入る日に心いたむわが生つひにかくのごとけむ
柴生田 稔
この作者にしては何でもないことを言っているようであって、そうではあるまい。「わが生つひにかくのごとけむ」は、夕映に感動している自分を顧みて、ふと深い感慨におそわれたのであろう。それとなくアララギの伝統を自覚するという心も潜んでいるのかもしれない。とにかく単純な夕映の歌ではなくて、屈折した心理を表そうとしている点同感が持てる。だが上下の句が渾然と融合しているかというと、そういい切れないものを感ずるのだが、どういうものだろう。なお下の句は、「わが生はかくのごとけむおのがため納豆買ひて帰るゆふぐれ」(茂吉・「つきかげ」)という先例がある。(茂吉のはまた「功徳もまたかくの如けむ」(金光明最勝王経古点)などから来たのだろう。万葉にもない「ごとけむ」という語に関心を持っていたので、ちょっと記す。)
沢高くよごれて残る雪塊(ゆきくれ)の夕暮るる時しるく見ゆるも
加藤 淘綾
正直に対象を見つめている態度には好感を持つが、何か力が足りないようである。結句の「しるく見ゆるも」が説明的で弱いのかもしれない。加藤氏の山岳の歌は注意して読んでいるが、ややもすると輪郭だけが目立ち、感情の揺らぎに乏しいものが目につくようである。そこがいつも惜しいと思う。
生ける間(ま)の時をりにして安かれよ月しらしらに射すわがからだ
柴谷武之祐
「月しらしらに射すわがからだ」には一種の気取りがあるように見えるが、この作者の境界を思うと納得できるところがある。そういえば「生ける間の時をりにして安かれよ」も、うわついた作り声ではないだろう。同じ作者の「対岸の砂地がしろく見えをりてまたたくまなる残照のとき」も、しみじみとした調べがある。
昭和三十八年十月号
(漢字は新字体に、仮名は新仮名遣いに書き換えました。)
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