帰るべき家あり今日も帰りゆく靄は吾が家の方をつつめり 小松 榮次
この上の句を中心に妙に印象深い。この寂しくどこか鬱々とした感じはおそらく老年一人暮らしの生活によるものかもしれない。職場も家族もなくなった孤独な老年にして初めて捉えられた「家」である。
一連の他の作の孤独感は解りやすく詠まれているが、この一首はもっと名状しがたい感情を出すことに成功している。
古文書に凝り初めしを疎む妻ありて心の更にいきほふ
鎌田雄次郎
古文書に凝るのを妻が疎むことで更に張合いが出るというのがおもしろい。老いて世間離れが進む夫婦が、こうして小さな拮抗を張合いに暮らしている様が印象的で、作者の意図とは別に質のよいおかしみも出ている。
夫の残しし煙草を日毎供へきて今宵くゆらす終の一本
藪内みさを
親しい故人の遺品に託した追慕の作は多いが、この作も煙草を供えるという生活が意外に新鮮で、型にはまらない生活態度の生んだ一首である。作歌歴は別として、入会後約半年でこの素直に気持ちの通った自然な詠みぶりを示した作者に敬服する。