作品紹介
 
選者の歌
(令和7年4月号) 
 
    東 京 雁部 貞夫
  富士山は万人のもの入山料四千円とは気でもれたか
天井に「此花咲耶」も嘆くべし地上の「せこい」争ひ知りて
 
    さいたま 倉林 美千子
  「ドーミー*も子もうるさいから今すぐにミチコと出よう。何処へ行きたい?」 *施設名
あきらめて一人黄泉路を行きしかど涙ぐましもこの身遺りぬ
 
    四日市 大井 力
  空に向け鎌を構へし蟷螂が枯草色に命果てゐつ
橋の上の空が黄菅きすげの色に澄みはや金星がひかりを放つ
 
    柏 今野 英山
  旅先の列車に撥ねられしわが友よ五十年経てその街に立つ
ギターラとヴィオラと男の高き声礼拝堂のドームに満ちる
 
    横 浜 大窪 和子
  われを呼びしその唇は閉ざすとも消ゆることなしわれを呼ぶ声
並び写れるわれは省かれ夫ひとり旅立ちゆきし写真かざらる
 
    札 幌 阿知良 光治
  鏡餅おろして汁粉に入れ供ふ今年も吾等を見守り給へ
雪掻きを終へてコーヒー淹れをれば妻の仕草のまた浮かび来る
 
    神 戸 谷 夏井
  息が足りぬと詠まれし歌の心沁む風邪の喘鳴あへぎに苦しむ夜は
こんなにも湧き来るものか痰一斗子規居士の気持ちに少し近づく
 
 
運営委員の歌
 
    能 美 小田 利文
  酒を控へはや八日目か妻の咳の治まるを願ひレモネードを飲む
「神田川」聴けば思ふよ箒川を見下ろす宿舎を新婚の日々を
 
    生 駒 小松 昶
  七回忌の小谷先生のみ墓辺に令室の卒塔婆の墨の新し
読経響くみ霊の前に積まれある友らの歌集胸に迫り来
 
    東 京 清野 八枝
  枯れ蓮のあまた沈める池の面にパステルカラーの夕雲映る
眠剤に眠りし幾日いくか床の中に右足わづかに疼き薄れぬ
 
    広 島 水野 康幸
  同期にて大学に学びしを知らざりきその夫人と書道教室の友となりたり
ロシア語の『戦争と平和』に熱中し吾が読み終へしは三十年前
 
    島 田 八木 康子
  いたいけな戦後生まれの心身に容赦なかりしかPTSD 心的外傷後ストレス障害
PTSDの焔に日夜傷つきて非行の道に逃げし彼らか
 
 
先人の歌
 

 土屋文明の愛弟子で戦前・戦中に清新な生活詠で注目され、32歳で戦病死した相澤正の歌をその遺歌集(短歌新聞社文庫:文明の序文、雁部先生の解説あり)から辿る(10月の続編、最終回)。

昭和16年:中央公論社、谷崎潤一郎訳「源氏物語」系図梗概執筆に協力した。
 簾上げ明るくなりし室中に畳に吹ける埃目に立つ
 読み切りし校正刷をそろへつつ世なれにたりと思ふたまゆら
 霧らひつつひびしずまりし夕潮に白帆を上げて船のたゆたふ
 雨もりの痕いちじるき我が部屋に何時頃よりか鼠絶えたり
 大根の花野ゆきつつ思ひ出づ母と住みにしいとけなき日を
 落ち潮の湛へ澄みにし岩窪に夕星うつり磯づたひゆく
 屈折のいたく乱れし硝子戸を開けて見てゐる街中の森
 絨緞を敷きたるポーチゆきかへりかがみがちにてものを言ふ君
 すがすがと水を張りたる桶ありて防火砂ほされぬむしろの上に
 寝押しすとひぢはらひたるズボンより小さくなりしナフタリン落つ

昭和17年:同社「婦人公論」編集部次長
 突きすすみ機翼をけへす吾が二機の姿も永久とはにとどめたりけり
 弾幕の中に生きつつ砂かぶり敵陣越えし一部隊あり
 熱帯林戦ひすすむ御軍いくさに吾がの君もしたがひをらむ
 さぎごけの花の明るき柵のなか監視気球の繋索ロープ巻きをり
 吾が友のあまたみ軍に召されゆき年経る中に君をかなしむ
 みいくさに病みみまかりし汝が御魂ささげて遠くかへる父君

昭和18年:四月に習志野の部隊に召集、直ちに中支に向かい、秋、消息を絶つ。
  父母に寄す 中支戦場詠
 ふるさとの秋しおもほゆ刈萱の一本しげる草に伏しつつ
 夜清き空にかかれる銀河低しあはれふるさとの盆もすぐらし
 草いきれ香に立つ丘に小休止して物思もなき夕べなりけり
 黒々と髭さへのびて我はあり兵としなりて逞しきかな
 同郷の戦友たちと語るとき単純にしてうたがひもなし
 飯うまき一夏すぎて兵我はいよよ清しく努め果さな
 陰膳を据ゑて待つとふ父母よ真幸くしるく其の子吾在り

昭和19年:八月ころ、戦病死。同じころ中支を視察した土屋文明は正と連絡を取るべく努めたが叶わず、後に『韮菁集』に歌に残している。
 思ひつつ あした渡りし水上みなかみにすでになかりしかああ相澤正
 南京に或る夜目覚めて胸さわぎ君を思ひきただ会ひたかりき
 顔しろき生徒なりし日より短かからず共に食ひ共に飲みにしを
 ひすぎる君を或る時は怒りにきしみじみとして今朝一人思ふ

 新アララギ発行所の壁に、入営する宮地伸一を励ます相澤正の葉書がいまも掲げてあるという(雁部先生の解説)。戦争は絶対に起こしてはならない。


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