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土屋文明の長男、夏実さんが、私のいた大学病院で亡くなって51年になる。そこで今回は夏実さんを偲んで、文明の「時々雑詠」「白雲一日」「追憶亡児」(『青南後集』)、その妻テル子さんの『槐の花』より幾つかを抄出する。夏実さんは千葉大学病院の医師であったが、正義感が強く、某チフス事件を内部告発し、大学を追われた。その後京都府衛生部、衛生研究所に移ったが、大腸がんにて死亡した。昭和49年6月、51歳であった。
『青南後集』より
昭和49年
栗をめでまつたけめでつつ此の夕べ老の二人の眼は涙なり
貧は我を病は汝を育てきと思ふ病に汝は倒れぬ
立ち難きを思ひし夕べ妹に残る老二人を頼みたりといふ
天地にたらへる我と言はむにも汝なきことをうらめしみ思ふ
松のある小さき家も行き見むに汝なしといへば立ちすくむかな
昭和50年
(時々雑詠より)
我無くて汝あらば汝が苦労せむ天のまにまと言はば言ふべく
(白雲一日より)
この道にやうやく歩む汝なりき立ち変るとも道は行くべく
ひ弱く生れ来し汝をここに置き病むこと多く生ひたたしめき
思ひ出でよ夏上弦の月の光病みあとの汝をかにかくつれて
わけなしに恐れしことも忘れがたし日に日に弱き汝が生ひ先を
幼くして一生の体質定まると思はざるにもあらざりしものを
離れゐて安き父にもあらざりき時間教師のかけ持ちにして
父に似る気弱きなかにふるまひて早く過ぐれば恥も少く
ほしひままに職を捨て幼きを養はず悔いて言ふとも五十年前
何のためといふこともなき一日の青あらしの中ただ汝を思ふ
(追憶亡児より)
取り乱し重ねる中の万葉集古義松本にて彼が購ひしもの
学業をおきて三河の国の荒野ひらく動員に日を経しと伝ふ
彼の言ふ兵となる日を一日も遅くあれよと我は言ひてき
生れ死ぬる始終なれど人間の一人を見極めしと言ふにもあらず
昭和51年(某日偶成、他より)
論らふ者は論らへ職にあり職につくせる彼はわが子ぞ
肯なふ者否む者半ばする中にして立ちて来にけり我も彼もまた
誰を罪し誰喜ばむ心ありやただ正しきを正しとせよ
いくらかは心はやるも見過ごしき自らの若き日にたくらべて
彼なくて像ある下に二夜寝る朝の光は早くあかるし
無神論唯物論の親子にて子は亡く親は老い漠漠茫茫
『槐の花』より
昭和44年(1969):研究旅行らしい。(小松注)
暑き京都に働きつづけアフリカに旅行く秋を待つと告げ来ぬ
キリマンジャロ山の麓のテントの夜ハイエナ襲ふと読みし思ほゆ
スウエーデンの日本婆さんへとたのまれし煎茶一包も旅のカバンに
行く先々紹介の人あり同級生あるを頼みて我は安けし
年久しく願ひしウガンダの研究所に行くを喜び出立ち行きぬ
ジュネーブより直ぐウガンダのエンテベに下り立つ我が子の夏衣思ふ
ヴィクトリア湖ナイル河に流れいづるところ一日暇ありて見しと告げ来ぬ
昭和49年
わが子亡き家に目ざめぬ白き花にかこまるる写真夢の如しも
五十年定命を生きて逝きにしをいまだ少年の如く悲しむ
心つくし力つくし活きし五十年清々しとも一人慰む
死は意外に静かなるものとその妻に言ひ残したり医として生きて
市民の一人として京都をば見渡す伏見の岡に鎮まる
ただ七年住みし京都をとことはの處となして今ぞしづまる |