作品紹介
 
選者の歌
(令和7年11月号) 
 
    東 京 雁部 貞夫
  乱れゐし吾の味覚は目覚めゆくパッション・フルーツの酸味に会ひて
君くれし若狭鰈の一夜干し吾の味覚も徐々に復旧
 
    さいたま 倉林 美千子
  来年またここに会はむと手を執れる友らよ吾の生命いのちもがもな
「一年は長いが頑張ろう」と透析の君が便りの心にぞ沁む
 
    四日市 大井 力
  弱りたる足を鍛ふる試歩四千躓きてしたたか額を打ちぬ
起きよ起きよと熊蝉が遠く呼びかくるうつ伏せのままの目覚めのなかに
 
    柏 今野 英山
  復活祭のミサに見上ぐる円天上群れゐるわれらやはり子羊
聖ヨハネの斬首と呼ばれる大作に血にて画きしカラヴァッジョのサイン
 
    横 浜 大窪 和子
  夫と揃ひに持ちゐし時計を失ひし夢より醒めて引き出し確かむ
白きマフラー巻きてゼロ戦に乗る姿届きしかの日よ終の写しゑ
                 (特攻の従兄)
 
    札 幌 阿知良 光治
  妻と巡りし茨戸の岸に今日も来ぬ日課の五千歩日々に目指して
息子を送り独りとなれば仏壇に向かひて今日の報告をする
 
    神 戸 谷 夏井
  天仰ぐ安倍晴明を思ひつつ庭に出でては雨を乞ふわれ
貴船にて鮎を食すを贅沢と思ひし夫か吾への手土産
 
 
運営委員の歌
 
    能 美 小田 利文
  代理人投票にも慣れ真つ直ぐに一人の名を指す二十二歳よ
朝まだき髭を剃り身支度整へぬ町内クリーンデイに班長吾は
 
    生 駒 小松 昶
  題一回「短歌現代」新人賞石原光久享年七十八
歌のはじめに光久の元に通ひたり平賀源内邸を過りて
 
    東 京 清野 八枝
  布団被りし母に負はれて生き延びきわが八十年疎かならず
われも子も己に甘き生活習慣病わが子育てをひそかに悔やむ
 
    広 島 水野 康幸
  水平線にかすむ島の夢の国を詠ひしわが歌を父は褒めにき
中学生の妹が書きし作文の「わが兄」読めば過大に褒めぬ
 
    島 田 八木 康子
  若き人も我より先に輪廻せし先輩かとも思へばやすし
ひた泳ぎ太平洋に果てむとせし復員の後を知りし遠き日
 
 
先人の歌
 

 土屋文明の長男、夏実さんが、私のいた大学病院で亡くなって51年になる。そこで今回は夏実さんを偲んで、文明の「時々雑詠」「白雲一日」「追憶亡児」(『青南後集』)、その妻テル子さんの『槐の花』より幾つかを抄出する。夏実さんは千葉大学病院の医師であったが、正義感が強く、某チフス事件を内部告発し、大学を追われた。その後京都府衛生部、衛生研究所に移ったが、大腸がんにて死亡した。昭和49年6月、51歳であった。

 『青南後集』より
  昭和49年
栗をめでまつたけめでつつ此の夕べ老の二人の眼は涙なり
貧は我を病は汝を育てきと思ふ病に汝は倒れぬ
立ち難きを思ひし夕べ妹に残る老二人を頼みたりといふ
天地にたらへる我と言はむにも汝なきことをうらめしみ思ふ
松のある小さき家も行き見むに汝なしといへば立ちすくむかな
  昭和50年
 (時々雑詠より)
我無くて汝あらば汝が苦労せむ天のまにまと言はば言ふべく
 (白雲一日より)
この道にやうやく歩む汝なりき立ち変るとも道は行くべく
ひ弱く生れ来し汝をここに置き病むこと多く生ひたたしめき
思ひ出でよ夏上弦の月の光病みあとの汝をかにかくつれて
わけなしに恐れしことも忘れがたし日に日に弱き汝が生ひ先を
幼くして一生の体質定まると思はざるにもあらざりしものを
離れゐて安き父にもあらざりき時間教師のかけ持ちにして
父に似る気弱きなかにふるまひて早く過ぐれば恥も少く
ほしひままに職を捨て幼きを養はず悔いて言ふとも五十年前
何のためといふこともなき一日の青あらしの中ただ汝を思ふ
 (追憶亡児より)
取り乱し重ねる中の万葉集古義松本にて彼が購ひしもの
学業をおきて三河の国の荒野ひらく動員に日を経しと伝ふ
彼の言ふ兵となる日を一日も遅くあれよと我は言ひてき
生れ死ぬる始終なれど人間の一人を見極めしと言ふにもあらず
  昭和51年(某日偶成、他より)
論らふ者は論らへ職にあり職につくせる彼はわが子ぞ
肯なふ者否む者半ばする中にして立ちて来にけり我も彼もまた
誰を罪し誰喜ばむ心ありやただ正しきを正しとせよ
いくらかは心はやるも見過ごしき自らの若き日にたくらべて
彼なくてすがたある下に二夜寝る朝の光は早くあかるし
無神論唯物論の親子にて子は亡く親は老い漠漠茫茫

 『槐の花』より
  昭和44年(1969):研究旅行らしい。(小松注)
暑き京都に働きつづけアフリカに旅行く秋を待つと告げ来ぬ
キリマンジャロ山の麓のテントの夜ハイエナ襲ふと読みし思ほゆ
スウエーデンの日本婆さんへとたのまれし煎茶一包も旅のカバンに
行く先々紹介の人あり同級生あるを頼みて我は安けし
年久しく願ひしウガンダの研究所に行くを喜び出立ち行きぬ
ジュネーブより直ぐウガンダのエンテベに下り立つ我が子の夏衣思ふ
ヴィクトリア湖ナイル河に流れいづるところ一日暇ありて見しと告げ来ぬ
  昭和49年
わが子亡き家に目ざめぬ白き花にかこまるる写真夢の如しも
五十年定命を生きて逝きにしをいまだ少年の如く悲しむ
心つくし力つくし活きし五十年清々しとも一人慰む
死は意外に静かなるものとその妻に言ひ残したり医として生きて
市民の一人として京都をば見渡す伏見の岡に鎮まる
ただ七年住みし京都をとことはの處となして今ぞしづまる


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