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今回は、福岡市生まれ、広島文理科大学で教鞭をとり、原爆のため46歳の若さで死去した中島光風を紹介したい。歌集には、本人没後34年の昭和54年に、教え子たちにより発行された「中島光風歌集」(128首)、更に2年後に、第五高校の学生だったころ本人が主宰した第五高校の歌誌「白路」から162首を友人が追加して出版した「続中島光風歌集」の2冊がある。
略年譜より
明治33年福岡市柳原3丁目に父中島治郎吉、母武子の4男として生れる。大正十一年第五高等学校入学。アララギ入会もこの頃か。大正十三年東京帝国大学文学部国文学科入学。昭和4年松尾千代子と結婚。昭和9年広島高等学校教授に就任。昭和11年長女誕生。昭和17年広島文理科大学講師兼任。昭和19年「上世歌学の研究」の稿成る。昭和20年「上世歌学の研究」筑摩書房より刊行。8月6日被爆。8月31日46歳で佐伯郡廿日市町地御前の仮寓にて絶命。
中島光風歌集「あとがき」より
前略 <道の上にほろがり出でてかへるでの青葉しげりて夏は来むかふ>の歌について、島木赤彦は(すなおに現れていていい。)と特に評を加えた。赤彦が先生の歌を評価していたことは、その他の選歌からも推察せられる。後略
西本篤武 昭和54年7月
つぬさはふいはほの間よりおのづから湧けるいで湯は神のみ湯かも
ひむがしの大阿蘇が嶺にゐる雲のあかねさしつつ日は出でむとす
すがの根の長き春日もくれにけり水に落ちゐる白椿の花
道の上にひろがり出でしかへるでの青葉しげりて夏は来むかふ
縁側にうづくまり居ていつまでも金魚ながむる幼児なりし
山の端を月いづるなべしらじらと谷川の瀬のかがやきわたる
あさぎりのはれゆくなべに富士が嶺の雪しろじろとあらはれにけり
髯もじやの兵士の顔がつぎつぎに大写しになりてほがらかに笑ふ
看護兵の肩につかまりて汽車下るる白衣姿の君に礼する
爆破されて廃墟となれる街なかを支那兵らしきもの逃げゆくを見き
午後の陽のかげりひそけきこの街に「出征軍人家族」の表札多し
市人は寝ねしづまりし夜空には渡り鳥の群いくつか過ぎぬ
うすくらき御堂に並ぶ仏像のにぶく光れり秋のまひるま
やうやくにたどりつきたる山の湯の宿の電燈のいたくくらしも |