作品投稿

作品募集要項

短歌をお寄せ下さい。作品には運営委員による指導があります。以下の手順でお願いします。

(1)「初稿」の提出。1人1か月に5首まで。自作未発表作品であること
(2)「改稿」の提出。「掲示板」での添削等を取り入れた改作。この提出は月3回程度。
(3)毎月20日までに「最終稿」と明記して、1人3首まで(厳守)を、指導を受けた作品の中から自選して、あらためて提出
(4)ハンドルネームを使用してもよいが、混乱が生じやすいので頻繁に変えないこと。
(5)「新アララギ」本誌の会員は、ここに投稿した作品を本誌に二重投稿することのないように注意する。
(6) 投稿された作品は選抜の上、「新アララギ」誌上又はインターネット上のホームページに掲載される。掲載後は原則、削除や消去は不可である。


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今月の秀歌と選評



 (2025年5月) < *印 旧仮名遣い >

水野 康幸(新アララギ HP運営委員)


 
秀作
 


湯湯婆

若人のジェルで固めた短髪とだんじりの金が陽光に照る
大工方命綱をば腰に引き身を乗り出してはたき振りおり
だんじりは襁褓の頃より馴染みおり血が騒ぐとて友は鉦うつ


評)
前)ジェルとはゼリー状の整髪料のこと。だんじり祭りの金色と陽光に光る若者の汗ににじんだ髪の取り合わせに特色があり、祭りの様子をよく表しています。
中)大工方とは山車の屋根の上に乗る人のこと。持っているものは「はたき」と呼ぶそうです。「身を乗り出してはたきを振る」と表現し、祭りのたけなわの状況です。
後)友が「血が騒ぐ」と言って鉦をうっています。
 


はな

骨折し入院する友見送りぬ窓辺に花の雨は降りつつ
古寺の庭の片隅の地蔵尊梵字苔むす時を刻みて


評)
前)入院する友を見送ったが、その窓辺には花の雨が降っていたという。悲しくも美しい情景です。
後)地蔵尊にある梵字が苔むして、文字も薄れているのでしょう。長いときを刻んできたことが分かります。
 


原田 好美

今年またツツジの赤い花が咲くあるじ入院の隣家の庭に
道すがら紅紫(あかむらさき)の花ありて帰り調べぬ蘇芳の花なり


評)
前)今年またツツジの花が咲いた。それは隣の家の主人が入院して留守になっているその庭に咲いたのだ。さびしい隣家とそこに咲いている美しい花。 後)歩く道にあかむらさきの花があって家に帰り調べた、という。特に新しいことのない歌だが、こんな事でも歌になる模範のような歌です。「道すがらあかむらさきの花ありて」に重心があります。
 


鈴木 英一 *

四月より「陶芸を楽しむ会」再開さる想ひ起こして轆轤を廻す
手捻りの湯呑を轆轤で仕上ぐるに両手で挟む指先つりぬ


評)
前)作者が陶芸の会に入っていたことを思い出してろくろを廻しています。楽しみを思い起こしている様子です。
後)ろくろで陶芸を仕上げようとして、慣れていないためか、指先がつったという。ただ、事実だけを詠んでいて陶芸の楽しみが読者 に伝わって来ます。
 


つくし

我がクラスにあみだくじにて入り来ぬ大人を誰も信じぬ君が
六回も小学校を転校す罪から逃げる母と暮らして


評)
前)この「我がクラス」に入って来た「君」は、作者の同級生ではなく作者の担任しているクラスに入って来た問題児のことです。大人を信じない問題児に取り組んでゆこうとしている作者の気持ちが表われているような気がします。
後)この歌では、転校を繰り返している「君」が省略されています。
 


夢子

友となり初めて知れり感情はAIの如く習うものとぞ
血は無くも知恵にあふるるAIは人より深く情を知るらし


評)
前)AIが友となって初めて知った、感情は習うことにより豊かになることを。と言う意味で、ただ単に「嬉しい」「悲しい」を繰り返すだけではないのだ、と作者は言っています。
後)AIは人よりも深く情を知っている、という事は作者の発見であったと思います。
 

佳作



是石

名乗るとき舌が勝手にすべり出す気付いたらもうスムニダである
母国語を打とうとすればパソコンに「存在しない」と冷たき表示


評)
前)舌が勝手に「スムニダ」と言い始める、日本語はむつかしいな、という感慨です。私が「カムサハムニダ」とするべきだ、と添削したのは、「スムニダ」ではなく「ありがとう」に直したら、という意味で内容が違っていました。訂正してお詫びします。完璧な日本語で、しかも短歌になっています。
後)韓国語を間違って打とうとすると、パソコンに「存在しない」と冷たく文字が表れた、という意味です。
注:三首のみの投稿でしたが、是非投稿を続けていただきたい。戦前に台湾の人たちによる短歌が詠まれていたそうです。アララギではなかったかも知れません。短歌は外国人でもできないことはないと思います。
 


紅葉

半時間今日はせいぜい座るだけ卒業式は卒業なのだ
学生証とコピーカードを返せばカードケースに残るものなく


評)
前)作者は学校が嫌いだったのか、すべて卒業となり学校とかかわりがなくなることを喜んでいるかのようです。
後)学校に「学生証」などを返してしまい、カードケースには残る物が無くなった。淋しい感じが表われているようです。
 
 
寸言

 他人の真似でない個性ある歌、個性ある題材を扱う歌が良い、とする説がある。例えばAIの歌やヒマラヤ登山の歌などだが、人の目を引きやすく、また多くの人が知らないことなので、一般の人が読むと「成るほど、そんなものか」と納得し易い。私は初め「そんなことより、歌い方に特色がなければ良い歌ではない。題材の真新しさで人の注意を引く歌は邪道ではないか。」と思っていた。歌は「発見である。」と言う人がいる。AIやヒマラヤ登山では普通の生活をしている人には分からない多くの発見があるであろう。今では私は特殊な体験から生まれる発見も歌の大切な要素と思うようになった。
 一方、一見平凡に見えてそうでない歌もある。例えば万葉の持統天皇の歌である。「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香久山」この上の句は平凡な感慨だが、下の句になると、「白妙の衣ほしたり」という実景が出て来るので、一首全体とすれば平凡な歌ではない。要するに個性的な歌であれ、一見平凡な歌であれ、良き歌は良く、悪しき歌は悪しき歌なのだ。
 今回歌の評価をして、個性的な歌と、一見平凡な歌との両方に接することができ面白いと思った。結果から言うと、私は一読して印象に残る個性的な歌に惑わされることなく、できるだけ歌として優れているかどうかにより評価した。しかし、結果として秀作として選んだものには殆どそのレベルに差がなかったので、そのつもりで見て頂きたいと思っている。
          水野 康幸(新アララギ HP運営委員)
 
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