作品投稿

作品募集要項

短歌をお寄せ下さい。作品には運営委員による指導があります。以下の手順でお願いします。

(1)「初稿」の提出。1人1か月に5首まで。自作未発表作品であること
(2)「改稿」の提出。「掲示板」での添削等を取り入れた改作。この提出は月3回程度。
(3)毎月20日までに「最終稿」と明記して、1人3首まで(厳守)を、指導を受けた作品の中から自選して、あらためて提出
(4)ハンドルネームを使用してもよいが、混乱が生じやすいので頻繁に変えないこと。
(5)「新アララギ」本誌の会員は、ここに投稿した作品を本誌に二重投稿することのないように注意する。
(6) 投稿された作品は選抜の上、「新アララギ」誌上又はインターネット上のホームページに掲載される。掲載後は原則、削除や消去は不可である。


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今月の秀歌と選評



 (2024年4月) < *印 旧仮名遣い >

水野 康幸(HP運営委員)


 
秀作
 


鈴木 英一

春深み雲雀の高鳴きまだなれど畑地の中を飛びては歩む
雪柳の花広がるも辺りには沈丁花の香漂ひてをり
森中の露天風呂に入り足伸ばすいづくにか鴬鳴きて止みたり


評)
前:雲雀が畑の中を飛び跳ねているさまがよく表現されている。中:沈丁花が雪柳に隠されて香りだけが漂っている。推敲の結果、うまく表現を変えてこのようになった。後:のんびりと森の中の風呂に入っていると、鶯が鳴きて止む。下の句が良く情景を表している。
 


原田 好美

光満つ旧宮邸の春の午後枝垂れ桜は風に揺れゐる
富士の山毎日見れど同じ様見ることはなし雲の懸かりに


評)
前:いっぱいに明るい光に満ちている旧宮邸、見ると枝垂れ桜が風に揺れている。「光満つ」の最初の表現から旧宮邸の明るさが表われている。後:富士への雲の懸かり方により、日々景色が違うなと思いながら作者は今日も富士を眺めている。
 


大村 繁樹

海見ゆる河口の土手の桜木の蕾ふふみて色づきて来ぬ
桜木のふふめる枝よりひよの発つま白き胸に朝日を受けて


評)
桜より鵯が飛び立つときの様子がうまく表現されている。特に真白な胸が見えたのを捉えたのがよい。
 


時雨紫

座りいる陽だまりソファーの心地よく夫弾くピアノの調べ流るる
片付けは夫に任せしカウンター舐めたるがごと黒光りせり


評)
ソファーに陽を浴びて座っていると夫の弾くピアノが聞こえて来る。「日溜まりソファーの心地良く、の表現が個性的。」後:舐めたるがごととはやや大げさかとも思われるが、黒光りしているさまが良く表れている。
 


つくし

きみどりが優しく心に響くから春の木陰は立ち去り難し
担任はこれが最後と思いつつ春の渋谷にスーツを探す


評)
教師として最後の担任を終える。最初の歌はアララギ的ではないが、「黄緑が心にやさしいので木陰から立ち去り難し」の表現に曳かれた。
 

佳作



はな

野良猫の席白々と空いている桜も菫も咲く春なのに
空に向かい咲くくれないの桜花心してみる卒寿の君と


評)
最初の歌は野良猫が死んでしまったのか、それともこの頃見ないのか、どちらにせよ「春なのに」の気持ちに同感できる。どの歌も女性らしい感受性にあふれている。
 


夢子

君に甘え黙って居れば慰めてくれると思いわざと拗ねてる
年老いて思いは未来に飛んでゆくラピュタの城か浄土の蓮の花


評)
君に甘え、の君とは誰だろうか。わざと拗ねてる、の表現は個性的である。後:年老いて、浄土の蓮の花かラピュタの城に思いを馳せている。
 


紅葉

改札のsuicaの数に感情を動かすわれはケチなんだと知る
カフェインも飲んでしまおうこのところ便秘も動悸も咳もなければ


評)
前:スイカの数にふと気がついて、自分がケチなのだと知る、との感じ方がユニークである。後:カフェインも飲んでしまおう、との表現も独特である。
 


はずき

プリンス・クヒオはハワイ王朝出身にて努力が実り国会議員となりし
楽しみのワイキキパレード賑やかに友と出かけし日は遠くなり


評)
賑やかに友と出かけた日を思い出している。「遠くなり」で遠き日を懐かしんでいる気持ちが伝わってくる。
 
 
寸言

 添削の作業をしながら、こんなことを考えた。添削をするとき、無論ひらめきが出てうまく行くときとそうでない時がある。だが、概ね、始めから良い歌は改作して更に良くなるが、あまり良くない歌は改作によりそれほど良くならない。即ち元の歌の出来により改作の出来が左右されることが多い。また、あまり良くない歌にホームページ委員が他所から新たに材料を大幅に取り入れれば、大変良くなる場合があるが、それは元の歌を離れることになるので、改作とは言えなくなる。我々が出来るのは、元の歌に寄りながら、その歌がどれだけ良くなるかを本人と一緒に考えるだけである。助詞を変える、とか、上の句と下の句を入れかえる、とかするわけだが、あくまで歌の材料は元のままである。したがって改作によって素晴らしい歌になれば、その要素が元の歌にあったことになる。最終的に良くなった歌を最終稿から発表するわけだが、それは本人のものであるか、本人のものではないのか。本人と委員の共同作業の結果なのではあるが、元の歌の良さがより鮮明に出ることになるので、本人の作と言ってよいのではあるまいか。
             水野 康幸(HP運営委員)
 
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